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●2005年10月「僕の最初のオーケストラ京都K女子中高とシエナのはなし」
2005/10/5
僕が、まだ大学に入った頃。「指揮がしたい!」一心で、見つけた仕事が京都の
K女子中高校吹奏楽部の指導だった。とにかく、こっちも高校を卒業したてで、相
手は歳のかわらぬ女の子ばかりだし、とはいえ、まだまだ遊んでなかったから(結
構、硬派だったんですねー、もったいない・・・)厳しいコーチになりきっていた
ときだった。それでも「佐渡コーチ!」と黄色い声で呼んでくれるのが嬉しかった
し、彼女らも女ばかりの学校に、頼もしい兄貴ができたみたいで、何かわくわくす
るものがいつもあった。
吹奏楽団としてのレベルは、お世辞にも決して高いものではなかったが、練習時
の彼女らのパワーは凄いものがあって(奇声を発する)、「淀川工業高校も、洛南
高校も、おんなじ高校生や。こいつら無駄なことにエネルギーを使いすぎとる」と
よく思ったものだった。かといって、今から思えば、まだまだまじめな生徒たちで、
そりゃ、携帯電話もパソコンもまだない時代だし、彼女らは、つまりエネルギーが
有り余っていた。
ある日、「こいつら、本気でやらしたら、めちゃくちゃ上手くなるかも知れん」
と、そう思い立った僕は、それぞれの専門の友人たちにも声を掛け、各パートにト
レーナーを付け、本気で京都大会金賞を取りに行った。朝練を始め、合宿を行い、
その辺のスポーツ部にも負けないぐらい、みんな真っ黒に日焼けした。
そのときに演奏した自由曲が、ネリベル作曲『二つの交響的断章』。そして、シ
エナ・ウインド・オーケストラと最初の録音で取り上げたのがこの曲。どうしてこ
んなことを書き出したかというと、最近そのときのメンバーとネット上の掲示板を
通して連絡が取れた。そして、そのときのコンクールの録音をもらった。ドキドキ
しながら聴いたその演奏。課題曲は「銅賞」にふさわしく課題が一杯(笑)。だけ
ど、ネリベルは完全燃焼の凄まじい演奏だった。僕らには、これ以上を求めること
はできない演奏といえるし、まるで内臓を掴まれるような、気魄迫るともいえるそ
の音がそのMDに入っていた。K校の演奏を聴いた後、久しぶりにシエナと録音し
たCDも聴いた。それにも同じネリベルが入っていた。 「何にも変わってへん
なぁ・・・」ちょっとウルウルしながら苦笑した。
シエナとの関係も8年になる。本当に、この8年の間、メンバーと僕と、共に成
長してきたと思う。毎回シエナの演奏会を終えると、誇らしさと、社会の中で「音
の仕事」をしていると実感を強く持つことができる。一時期「精神論を言うな」的
な論調がはやったように思うが、実際、彼らと8年間演奏会を作ってきて、「根性」
を感じるし「気合」の強さを感じる。充分に練習をして、本番での底力、これがや
はりシエナと僕とが、大事に育てたものだと思う。
僕以外の指揮者でも、僕の弟分の金聖響や本名徹次氏など、実力派が指揮台に上
がってくれるようになってきた。この10月14日にはホームグラウンドの横浜みなと
みらいホールで下野竜也君が初めてシエナの指揮台に上がってくれる【詳細はシエ
ナのHPでhttp://sienawind.com/】。彼は、朝比奈隆先生と大阪フィルが育てた
素晴らしい逸材。きっとシエナと素晴らしい舞台を繰り広げてくれるだろう。そし
て、あのシエナの演奏会の醍醐味、『素晴らしい技術+心地よい達成感』の原点は、
京都の女子高生たちと作り出されたものであることを、皆さんにちょっと知らせた
かった。
下野君、思いっきりシエナを鳴らしてくれ!
●2005年6月 兵庫県立芸術文化センター竣工式編 2005/9/27
日本に帰ってきて、まず芸文センターの竣工式に出席した。今までも設計図の説
明を受けながらホールを見てきたし、CGで完成予想図も見せてもらっていたけど、
実際完成したホールの中に入ると、「えらいもんができた!」と本当に思う。竣工
式で読み上げる予定だった文章をここに載せることにしよう。実際は暗記して読ん
だから、どうしゃべったか忘れたけど、まああまり変わらなかったでしょう。
『竣工式挨拶文』
この土地に囲いだけがしてあって、まだ雑草が多く茂っているまったくの新地だ
ったときに僕はこの場所を訪れました。やがて「トンテンカンテン」多くの人の手
によって工事は始まりました。その間も何度かこの工事現場を訪れましたが、その
工事の騒音は僕にとっては、まるで美しいドミソように美しく響いていました。
大震災からわずか10年。復興のシンボルとして素晴らしい劇場が完成しました。
そして、ここで演奏するオーケストラも、ついこの前、世界中でのオーディション
を行い、この9月には兵庫芸術文化センター管弦楽団として誕生いたします。
お陰さまで、最初のスタートにあたる10月のオープニングコンサートは、ベー
トーヴェンの『第九』を3回演奏する予定でしたが、発売と同時に即完売いたしま
した。更に2回の追加公演を決定しましたが、それもほぼ完売の状態です。
世界中から集まるオーケストラのメンバーには、震災で多くの犠牲者が出たこと
をまず伝えようと思います。そして、残された人と人が手と手を取り合って助けあ
い、以前にも増して、もっともっと住みやすく、人に優しく、たくましく、さらに
将来の子供たちに未来のある街を作ろうという想いが、この劇場を誕生させたのだ
と伝えようと思います。
ここで演奏される音楽は、多くの犠牲者のための祈りです。そして平和で幸せで
ありたいという願いです。
また音楽は心のハーモニーです。演奏技術だけではなく、オーケストラが奏でた
音を、感性豊かな聴衆に受け止められて、初めて感動が生まれるのです。ですから、
この劇場は全ての人の「心の広場」とならなければなりません。「劇場がみんなの
広場になる」それをテーマに、全てのスタッフと一丸となって、この秋のオープニ
ングに全力で向かいたいと思います。この秋、「トンテンカンテン」あの工事の音
が、美しいドミソに変わります。
●2005年5月ベルリン交響楽団 「ドイツで果たしたリベンジ編」
2005/9/15
今、ベルリン交響楽団の演奏会初日が終わった。ベルリン・フィルではないけれど、
確実に新しい一歩を踏んだ感がある。演奏会はそれなりに満足。どうしてフル満足じ
ゃないかって? 明日のほうが良いに決まっているから。今日の演奏をとおして、こ
のオーケストラと深い交信ができたと思った。練習もよかったとは思う。初日より二
日目、二日目より三日目。そしてゲネプロを経て、今日の演奏会に上手くつながった
と思う。その証拠に、今日の演奏会の前に、すでに次の仕事の依頼を請けた!
実は、僕はこのオケで失敗をしている。それはもう10年以上も前の話だけれど、当
時僕にとって初めてのドイツのオケで、曲目はブラームスの『大学祝典序曲』に、めず
らしいクララ・シューマンのピアノ協奏曲、そしてシューマンの1番の交響曲『春』。
まあ、かつての東ドイツを代表するオケを相手に、日本の若造が挑戦する曲目ではない。
何か大きなことをやらかした失敗ではなかったけれど、たいした成果も残せず演奏会は
終わってしまった。ここに指揮者を目指している人がいたら言っておく、たいした成功
をしなかったら、そのオケとの関係は絶たれる。つまり失敗です。しかしそれから10年
以上、その失敗を、悔しさを、厳しさを胸の奥に秘め、まあ、コツコツやってたら、こ
うしてまたリベンジのチャンスも訪れるというもの。
僕も44歳。指揮者界で中堅と言われるてしまう年齢になった。若いときは、コンクー
ルの賞をとることに必死だった。だけれど、すぐにコンクールよりも実際の仕事のほう
が如何に大変かということを知った。たとえば、僕の優勝した「ブザンソン指揮者コン
クール」も、僕の後たくさんの日本人が優勝した。だけど、今いったい何人が、このヨー
ロッパを基盤に仕事を続けていることか? ブザンソンの優勝者ではないが、ベルギー
で活躍している大野和士君は別格として、もし「せっかくヨーロッパのコンクールで優
勝して・・」そう言われて悔しかったら、音楽の本場ヨーロッパを舞台に勝負すること
やな。ドイツであろうが、イタリアであろうが、フランスはもちろん、このヨーロッパ
には、やはりたくさんの感動するものがある。言葉の壁もあるし、同じドイツだって、
南と北では別の国に感じるほど違いががある。今までの僕の指揮したオケを数えてみた。
ヨーロッパだけで、13カ国、40団体。
僕の数少ない弟子っ子に、柳澤寿男というのがいる。僕にくっついてパリにまで1年
間留学した経験があるやつだ。どうしようもない弟子で、僕はしょっちゅう怒ってた。
ついこの前、彼から久しぶりに連絡があった。「マケドニアの歌劇場の首席指揮者にな
りました!」という報告。「どこじゃ?」と、つい答えてしまったが、「あの柳澤がね
…」と思うと、嬉しくて仕方がない!指揮者人生、ここまで一苦労、これからも一苦労、
だけど、未来のある幸福感を、彼は今ひしひしと感じていることだろう。本当に、おめ
でとう!
●ドイツで書いたなぜか「京都日記」!? 2005/9/8
なぜか、無性に京都のことが書きたくなる。それは京都が今の自分自身の背景であり、
自分の心を今も強く支配している感覚だからだと思う。京都に着くたびに、まるで子供
のとき通った小学校を久しぶりに訪ねているみたいな、あるいは、実家にいまもある自
分の机の引き出しをそっと開けるかのよう懐かしさを感じる。自分の故郷でありながら、
すでに別の土地の人間として生活を送っている自分が、過去の自分、多感な少年時代と
出会える場所なのだ。
実家がある太秦は、映画のメッカ。今の映画村は、かつて電通のグランドで、子供ら
にも解放されていて、しょっちゅうそこで野球をしていた。また太秦はお寺の多いとこ
ろでもある。弥勒菩薩のある広隆寺に禅寺本山妙心寺、蚕ノ社(かいこのやしろ)とい
う小さな神社などは正に自分の遊び場だった。蚕ノ社の前にある池ではチューインガム
を餌にザリガニを釣って、本当は生き物を触るのは苦手なのに、友人の手前、無理して
ザリガニを掴んでいた自分を思い出す。天神川の三角州には、男なら誰もが経験してい
る、毎日のように通ったお手製の秘密基地があった。トタン板で作られた僕らの秘密基
地は、いったいいつ壊されたのだろう。近所のおもちゃ屋さん、田中さんの前を通ると
きは、いつも足が止まった。ショーウィンドーに飾ってあるトランシーバーが欲しくて、
いつまでも自転車を止めて、発泡スチロールのケースに収められたトランシーバーを憧
れの目で眺めていた。もうちょっと大人になると、それはギブソンのギターだったり、
高級オーディオ装置になったりするのだけど、買えないとわかっていたから、ただただ
眺めていたのかなぁ。
そういえば花園駅の近くに卓球場があった。小学生の時、卓球部だったから、お金を
払ってわざわざ卓球をするのが面白かった。バタフライ社製、シェークハンドのマイラ
ケットを親に買ってもらい、オレンジ色のピンポン球がちょっと専門的ぽかった。自転
車はおじいちゃんに買ってもらった、当時大流行の方向指示器付のやつ。知っている人
はかなり時代が限られるが、後輪にエンジンカードというものを付けると、バイクのエ
ンジンのような音が出て、ちょっとした暴走族気分だった。中学生になると、方向指示
器は恥ずかしくて自分で外し、セミドロップのハンドルを逆さまに取り付けて、後輪の
ブレーキを上からかけていた。止まるときは、みんなわざわざスピンさせて止まってい
た。
決して何か罰を受けるような悪い子供ではなかったと思うが、例えば四条川原町に着
くといまだに不良心を擽られる。大きな通りよりも、横丁の路地についつい入ってしま
う。ジッポのライターやレイバンのサングラスを売っている店があって、それが如何に
素晴らしい物か得意毛に語ってくれた友人のことを思い出す。そう言えば、ジッポのラ
イターオイルにちょっとだけオーデコロンを混ぜたなぁ…。岩崎宏美の妹がCMをやっ
ていたやつ。
東山と親しむのは、高校時代ごろから。もちろん、子供の頃から京都会館は音楽を鑑
賞する特別な場だったけど、彼女ができて、学校の帰りに何度も平安神宮から清水寺ま
で歩いた。近い距離ではないのに、毎日のようにいったい何時間歩いたんだろう。
親の前で初めて煙草を吸った時の申し訳ない気持ちは、今も苦い思い出として残って
いる。吸い始めたのは、その頃の彼女と別れた失恋がきっかけ。慰めに来てくれた友達
が、忘れていったハイライトが最初のタバコだった。長年、おじいちゃんが吸っていた
のもハイライト。それからセブンスターに替えたけど、今思えばまだまだ親に言ってな
い内緒事が一杯ある。まあ、親はそんなこと全てお見通しだったんだろう。そして、親
にもきっと、僕に内緒の話があるはず。だけど、いまだに親の苦労など、僕はまったく
気づいてないように思う。
外から京都を眺めてみると、改めて美しい街だと思う。自分の育った所だけど、いま
だに知らない素晴らしいことが山ほどある。さすがに京都はいろいろな意味で深いと思
う。でも、どのガイドブックにも載っていないことばかりが、自分の心の宝箱に一杯し
まわれていて、それが今の僕を形成しているというのが、どうもたまらなく愛おしい。
それが、久しぶりに、ちょっとセンチメンタルに、京都のことを書きたくなった理由の
ようだ。
●「そしてベルリンもロンドンもやっぱり雪」編 2005/8/22
ウィーンの公演から、すぐにベルリンとロンドンに飛ぶ。もちろん兵庫のオーケス
トラのオーディションのため。1時間で6人から7人、それを朝から夜まで数日間続
けることは確かにきつかった。だけど、自分のオケが誕生するのだから、こんなにワ
クワクすることは無い。僕は札幌の音楽祭で、若い音楽家を毎年1000人ほど聴いて
きた。だから、今回のオケのレベルはどの辺りに落ち着くか、大体のことは予想して
いたが、この時点でその予想をはるかに上回る手ごたえがあった。
しかし、こうしてオーディションを世界中で行ってみると、本当にオーディション
慣れしている人とそうでない人に分かれる。確かに、応募要項には推薦状の提出も書
かれていないし、書かなければいけない必要な項目だけがあるのだけど、欧米の学生
たちは、これでもかと自分をアピールしてくる。それに比べて、日本人は書類が真っ
白。もちろん、こちらも演奏を聴けばほとんどが5分で判断はつく。だけど、受験者
がどれだけの想いでこのポジションを手に入れたいのかというのはまた別の話。そし
て同点でこちらがどちらかを選ばなければならないとき、やはり書類にしっかりと目
を通すことになる。オケの経験、現在の活動、将来の夢、誰かの推薦状、そうしたも
のが影響をするのは確かだし、会場に現れて笑顔も無ければ挨拶も無いのも心配の種。
圧倒的にうまければ、まったく問題の無いことだが、合格不合格のボーダーラインに
乗っている人は当然多い。やはり、舞台に立つ人間を選ぶのだから、人が見ていて気
持ち良い人を選びたい。そういう意味でも、日本人はまだまだオーディション慣れし
ていないといえるだろうなぁ。
今回のオーディションの意義は大きかったと思う。ベルリンではドイツ中の日本人
が挑戦してくれたし、フィンランドやスウェ−デン、デンマークなどからの受験者も
いた。今のこの時代、新しいオケが誕生すること自体が大変珍しいし、しかも震災の
あった街が、わずか10年後でホールとオケを持とうと決めたことに共感してくれたメ
ンバーがたくさん集まることに、改めて僕らのこの街での使命を強く決意した。
しかし、ロンドンもベルリンもやはり雪。今年は本当に“雪男”だわ・・・。
●「AYUの録音とウィーンデビュー編」 2005/5/17
コンセール・ラムルーの復活劇の後、いよいよAYUのCD製作に入る。日本の歌姫
と僕がCDを作るというこの企画が持ち上がってからまだわずか2週間しか経っていな
い。しかし日本人スタッフはなんとも大胆な企画をやっちゃうのだ。これもAYUのた
めと、日本を代表するPOPアレンジャー9人と、フランスチームとしてコンセール・
ラムルーのメンバー数十名、それにフランスの僕の録音チーム集結で必死になってやり
遂げた。
なかなかおもろい音になったんじゃないのかな。でも、今までAYUちゃんの歌って、
CMとか「ヘイヘイヘイ」とかでしか聴いたことが無かったんだけど、どれもとっても
いい曲なんだなぁ。僕の子どもの頃からの親友が、最近AYUのファンになって、「今
の高校生の気持ちがわかるようになった」とか言っていたけれど、確かに届くものを持っ
た人だなあと思った。
その後、いよいよウィーン・デビューへ。この街は僕にとっては大変大事で懐かしい
街。かつて、3年間レニーのアシスタントいう形で勉強した所。公演に合わせここでも
兵庫のためのオーディションをしたから、公演の少し前にウィーン入った。
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ウィーンデビューは、コンチェルト
ハウスにてウィーン放送響と演奏会
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しかし、ここでもまた大雪…。今年は行く所行く所、雪だ!連日の移動と過労でどう
も腰の調子がよくない。そうこうしている間に、かみさんが高熱。どうもインフルエン
ザにかかったよう。かわいそうに、10日間もウィーンに滞在して結局彼女は僕の公演以
外5時間ほどしかホテルを出ていない。それどころか、僕のアシスタント、ヤニックも
咳としゃっくりでやられた。「お前、30分もして止まらなかったら、死ぬって日本では
言うぞ!」と伝えたが、なんと10日も続いた! そして、マネージャー陣も総倒れ。み
んな発熱。なんじゃい! 俺だけ仕事せなあかんやんけ!
曲目は、バーンスタインの『オンザタウン』、マイケル・トルキーの『打楽器コンチェ
ルト』、そしてプロコフィエフのバレエ音楽『ロメオとジュリエット』。この『打楽器
コンチェルト』が、またひと問題あり。
というのも、まず大変厄介な曲。で、勉強が大変なわけで、やっと最後のページにた
どり着いたと思ったら、最後のページが紛失していることに気がつく! ぎりぎりで勉
強をしていたから、最後になって気がついた! 「もうちょっと早く勉強をしとけばよ
かった」と自己嫌悪に陥る暇も無く、すぐにオケに電話をして用意してもらう。
いや、ややこしかったのは、僕の手元には実はもう一部の楽譜が出版社から届いてい
た。なんせオーストリアでも初演の曲だから、一応念には念を入れていたのだが、もち
ろんこちらには最後のページがあって、「あ〜、良かった」と譜面を開いてみると、こ
れがなんと、全然別のバージョンじゃん! 片一方はヴァイオリンがあるけど、もう一
方はコントラバスしかない。どういうこと?? もしソリストがこの版でさらっていて、
オケが別の版だったらどうなる? もう踏んだりけったり! いや、鶴瓶ちゃんに言わ
せれば「踏まれたり蹴られたり」ですわ!
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ウィーン放送饗とのリハーサル。問題の打楽器コンチェルトに奮闘中
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まあ、ウィーンに発つ前日にはオケがどっちを使用するかが判明したのだけど、この
話はまだ続く。と言うのも、いよいよウィーン放送響での最初の音出しという時になっ
て、やはりオケが持っているのは更にもう一つバージョンの楽譜であることが判明!
普通、脳味噌がプッチーンと切れて「やってられるかい!」と指揮棒の一本でも折って
帰るところだが、ここはおかあちゃんに良く躾けられた僕だから、ぐっと我慢して、高
熱の家内の眠る隣で新しい譜面を一晩お勉強。ハハッ! 笑わなしゃあないで。まあ演
奏会は、ガーッと勉強して、ダーッと練習して、ドーッと成功しました。
しかしウィーンは凄いね。演奏会が終わってタクシーをひろったのだけど、タクシー
の運転手が言うわけ「今日の演奏会は、良かったですね!」って、「聴きに行っていた
のですか?」って聞くと、「もちろんですよ!」と言うから、「僕、今日の指揮者なん
ですけど...」って言うと、何度も「本当に!? 本当に!?」と叫んでいた。本当
にみんなが音楽を愛しているんだなぁ...。
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ホールの演奏会告知。よく読むと
ヨタカ・サド(笑)
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●「極寒のアメリカオーディションとラムルー復活編」 2005/5/12
サンフランシスコまでの飛行機はちょっとした休み。3時間の乗り換え時間も久しぶ
りのアメリカを満喫する。シカゴに着いたのは夜中の9時。スタッフと合流して、その
夜は晩飯を食って次の日からの兵庫のオーケストラのためのオーディションへ。
一日10時間をかけて、若き音楽家たちに出会う。ここから兵庫のオーケストラのメン
バーが決まるわけだから、いくらきつくとも気が抜けない。できる前から言うのもなん
だけど、本当に僕がほしいと思うメンバーが集まれば、間違いなく凄いオーケストラが
できる ! 日本中がアッと言うだろうね。
このオーディション、僕は今までパシフィック・ミュージック・フェスティバル(P
MF)のオーディションを毎年やっていたから想像はついていたものの。朝の9時から
夜も9時頃までかかる。テープ審査があってこれだから、今回のプロジェクトへの関心
の高さが分かる。
しかし、この時期アメリカはマイナス20度。外でタバコを一本吸うにも耳がちぎれそ
うに痛い!おまけにシカゴからニューヨークへの移動の飛行機が大幅に遅れる。ニュー
ヨークに着いたのは夜中の3時。次の日も朝から10時からオーディション。最初のオー
ケストラ誕生だから、全部自分で聴くと決めたけれど、さすがに音をあげかけた。
ここからヨーロッパに飛ぶのも、やはり飛行機は時刻どおりには行かない。なんとか
パリに着いて、一日の休みを取って、ラムルーの定期演奏会の準備へ。ここでもドラマ
ティックな話しがあった。
というのも、パリの僕のオーケストラ、コンセール・ラムルーは長年の経営難。そう、
遂に「最後の演奏会」を行うことになってしまったのだ。それはすでに分かっていたこ
とだけれど、僕がやらなければいけないことは全力でやってきたし、とは言え、僕の時
代にこのオケの長い歴史の幕を閉じるということは悲しかった。覚悟はできていた。な
るようにしかならないし、98パーセントのチケットの売り上げを達成してきたことを考
えると、僕がやれることはやってきたと思う。
また、この公演に選んでいたプログラムがベートーヴェンの「第九」で、「歓びの歌」
というのも因縁を感じる。今まで大阪の「一万人の第九」の参加者に、「歓びとは、嬉
しいことだけではないのです」と伝えてきただけに、しっかりと現実を受け入れ、心か
らフロイデを叫ぶことを改めて考えさせられた。
しかし、演奏会の前の日、奇跡は起こった! なんと、この直前になって、州とパリ
市がラムルーへの援助を決めたのだ。とにかく、それこそ歓喜の中、ラムルーは生き残
る。公演が終わったシャンパンの酔いもさめないうちに翌日からAYUの録音が始まる。
● 怒涛の年明け 編 2005/4/6
あまりの忙しさに『佐渡日記』も随分とご無沙汰してしまった。ざっと2005年の新年
からのスケジュールを追ってみることにする。
まずは神戸の『カウント・ダウン・コンサート』で新年を迎える。ただ新年を迎えるだ
けではなく。震災10年目を迎えるにあたり、悲しかったこと、辛かったことを心の奥にし
まい、そして10年間しっかりと生きてきたことを忘れず、新しい一歩を踏みだそうという
コンサートだった。
震災から10年、復興のシンボルとして建てられる「兵庫県立芸術文化センター」はこの
10月にオープンをする。スタッフにとっても、それに向けての大きな一歩。スタッフとそ
して多くのファンとが一緒に新年を迎えられるのは特別に嬉しい気分だった。
同時に、年末からテレビ朝日がお母ちゃんの番組を作ってくれており、公演中もずっとカ
メラが回っていて、正月は神戸の自宅と西宮のホールの現場での撮影となった。放送の中で
お母ちゃんが作ってくれた鯖寿司が大評判のようで、放送後に注文が殺到らしい。
そのあと少し休みをとって両親を連れて四国に温泉旅行。これが、「ここまで秘境でなく
てもいいのに...」というぐらい秘境。南国に行くつもりが大雪。
神戸に戻って、いろいろな会議をしながら、17日の震災10周年記念日に向かい練習が始
まる。それと同時にエイベックスから「AYU」こと、あの歌姫浜崎あゆみとCDを作って
ほしいという案が浮上する。
時間が無いのに、日本のスタッフはやるとなったら本当にやっちゃうんだから凄い。ここ
からわずか2週間で、フランスのコンセール・ラムルー管の予定を押さえ、ホールを押さえ、
エンジニアと機材を押えた。それどころか、まずしないといけないのはオーケストラ譜面の
アレンジで、僕は録音直前に楽譜を受け取ることになる。
しかし、やってみるとなかなか名曲ぞろい。アレンジャーも普段のPCで作る音楽とは違
い、楽譜の合間に意気込みを感じる。
しかしその前に、まずは天皇陛下が来られる17日の震災式典での演奏を練習。兵庫のオケ
のコンサートマスターを務めることになっている四方さん、豊島さんを中心に兵庫県出身の
「スーパー・キッズ・オーケストラ」のメンバーも参加して臨時オーケストラが出来上がっ
た。
演奏を終えたとき、陛下が凄く優しい顔でこちらを見てくださったことがとても印象的。
この日は、公式式典だけでなく、被災のひどかった長田の2地区の式典にも出させてもらっ
た。
ひとつは9名のママさんコーラスを指揮して鷹取商店街の公園で行った。もう一つは130
名にもなる地元の中学生たちの吹奏楽団を指揮して、五木ひろしさんと高石ともやさんと協
演。避難所だった中学校の体育館がコンサートホールになった。子供たちの懸命な演奏、そ
してそれに応えて大きな大きな会場からの拍手。このコンサートは僕の指揮者生活の中で最
も感動的だったかもしれない。
終演後、この日を最後に店を閉めてしまう僕の行きつけの喫茶店「木馬」のお別れパーティ
ー。かみさんと、そしてエイベックスの中島さんにも会議がてら来てもらって閉店を惜しむ。
1月に入って、来られる限りほぼ毎日この店に通った。
ここは僕とかみさんがデートを最初にした場所でもあるし、そして不思議な縁で、僕も神戸
に住むようになり、震災という大きな出来事を人々がどう捉えているのか教えてもらえる場で
もあった。そして、なにより神戸の芸術家たちとの出会いの場でもあった。
そんな芸術サロンともいえる店が閉まった。震災で店がつぶれ、一からマスターが手作りで
作ったお店。マスター撮影の写真も、手作りの家具も、そしてマスターの顔見たさに集まる常
連客も、全てが個性豊かで、どの一つの部分をとってもマスターの一部のような状態だ。マス
ターにも区切りが必要だったのだろう。震災10年を機に新しい一歩を進むことを決めたようだ。
また素晴らしい店を建ててくれたらいいなぁ。
次の日、新しい兵庫のオーケストラのオーディションでシカゴに飛ぶはずだったが、飛行機
がキャンセル。3時間前のサンフランシスコ行きに乗ってくれと旅行会社から朝9時に連絡が
入る。
なんせ昨夜は「木馬」の宴会で遅かったし、まだパッキングも出来てはいない。おまけに中
島さんとAYUのCDの打合せをしなければいけないから、結局出発の20分前までCDの話を
家でし、そこから空港までの車の中もずっと会議をし、ボーディングタイムになるまで空港の
ロビーのベンチで新しいCDのアイデアを練る。
「木馬」のマスターのことを考えながら、お母ちゃんのことを考えながら、神戸のことを考
えながら、機上の人となった。
● 休暇明けパワー全開フル回転!! 編 2004/9/22
8週間の夢のようなお休みもあっという間に終わった。「指揮がしたくてどうしよう
もなくなるか・・・」と期待したが、8週間の休みじゃ全然....。う〜ん、やはり
6ヶ月休むべきだったかなぁ? とにかく、4月は仕事再開。2年ぶりに旧東ドイツの
ドレスデンを訪れる。
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ドレスデンのシュターツカペレの前で
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世界最古のオペラハウス、ドレスデンの“シュターツ・カペレ”でバーンスタインの
交響曲第3番『カディッシュ』を振ることになった。僕も使った指揮者室には、かつて
ここで指揮をしたR・ワーグナーやウェーバー、R・シュトラウスといった大作曲家や
K・ベーム等の名指揮者たちの写真や絵が飾られており、このオペラハウスの歴史の重
さを物語っていた。思わず記念写真!
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記念写真!いつか僕の写真も!?
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ドレスデンに来るのは2回目。1回目は別のオーケストラ、ドレスデン・フィルへの
客演だった。その時はフランス物をメインにしたコンサートだったのだけど、さすがシ
ンフォニー・オーケストラ、なかなか密度の濃い演奏会だったことを思い出す。今回は
『カディッシュ』をメインに、『キャンディード』序曲、そしてバーバーのヴィオリン
協奏曲という組み合わせだった。『カディッシュ』は、このオケにとって全くの初めて
の曲目。他の2曲についても「やった記憶はある・・・」というような感じ。
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劇場の内部
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案の定、最初の練習は大変。『カディッシュ』独特の響きに対し、かなりの抵抗を感
じるオーケストラ。これが名門か? と疑いたくなる間違いよう。そりゃそうだ。何し
ろ真のドイツ音楽を演奏できる団体、言い換えればドイツ物以外は全て苦手なのだから、
新しいものに手を出すのは相当無理がある。正直、僕もこれを選んだことに少々後悔を
した。
だから精神的にもきつい1週間だった。それを癒してくれたのは、素晴らしい日本レ
ストラン「小倉」さん。一度お昼の時間帯に練習の関係で遅れた以外、一週間毎日お昼
と夜と食べに行った。詳しいことは「クレッシェンド・ボナペティート」に書くことに
するが、本当にありがたいことに、ここの料理でホームシックにもならず、ドイツ人の
リズム感の悪さにもめげず、何とか過ごせた。特に二日目のコンサートはかなりの出来
で、最後にはカディッシュの面白さを理解してもらえたと実感した。少なくとも、ここ
のオーケストラ・マネージャーで僕をここへ呼んでくれたシュタインドルフ氏は、終演
後楽屋を訪ねてくれて「感動した。本当に来てくれてありがとう!」と僕の前で涙を見
せた。そうそう、本番前に昔僕が阪大のオーケストラを指揮していた頃学生だった青年
が、たまたまの出張でドレスデンに来ていて、コンサートに来てくれ、挨拶をしてくれ
た。これも嬉しかったねー!
ドレスデンから直行で、“トヨタ・マスターズ・プレーヤーズ、ウィーン”の待つ名
古屋へ向かった。おっと、その前に大事なことを報告しなくっちゃ! 我が阪神タイ
ガース、甲子園開幕戦でなんと始球式をした! これは、タイガース・ファンの本人と
しては相当盛り上がっていて、2月ぐらいかな? 決まったのが。それからパリでボー
ルとグローブを探しても見つからないし、最後に何とかパリの友人が持っていた真っ黒
の重い硬球で18.44メートルを適当に測り、ラムルー管のビオラ奏者の安積くんが、ゴ
ルフのネットで代用して、キャッチャー・ミットではなくキャッチャー・ネットを持っ
て、それを相手に毎日30分キャッチボールから始めた。
それが面白いことに、ドレスデンに行ったらボールとグローブが売っていて、安積く
んがいないドレスデンで、子供の頃を思い出しながら、天井に向かって一人キャッチ
ボールをしていた。
日本に着くなり1日名古屋でオケの練習をし、すぐその後は元野球部だったという兵
庫の芸術文化センター理事長をキャッチャーに、しかも毎日放送元常務をバッターボッ
クスに立たせ、おまけになんと甲子園球場のマウンドで練習をさせてもらった。練習の
成果はなかなかのもので、ちゃんと時間をかけ、間をとれば、時々は「ドビューン」と
ど真ん中に投げられるようになる。(コツは、元常務の頭を思い切り狙うこと!)。
さて、当日。僕のために「1万人の第九」を代表してという意味で、背番号「10000」
のユニフォームからスパイクまで用意してもらった。5万3千人、満員のアルプススタン
ドの熱気は、甲子園に到着した時から十分に伝わってくる。国歌斉唱には「セクシャル・
ヴァイオレット」の桑名正博。これがいい人でね! まあ気さくな最高に楽しい人でした。
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全身ばっちり決まっていざ!!
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面白い話は甲子園にも楽屋があって、それが畳の部屋なのには笑った。本番に備え、
それなりにドキドキしていると、僕の昔からの兄貴的存在、ラジオで有名な諸口あきら
氏から電話を頂く。「お前さんサー、せっかくのセレモニーなんだから、まあ、矢野の
サインに首振るぐらいはセーヤ」なんて言ってくる。「へへへ、もちろんそれぐらいは
考えていますよ」なーんて軽く返事をしてしまった。そうこうしていると、なんとかつ
てのタイガースの代表的選手「代打、川藤!」さんが楽屋に応援に来てくれた。彼とは
「1万人の第九」でゲスト出演してもらってからの付き合いで、本当に素晴らしい人。
時々ゴルフ場であったりもするのだけれど、こっちが気がついてなくても、向こうから
わざわざ挨拶をしに来てくれる。「まあ、思いっきり投げてください!」なんとありが
たい、贅沢な環境でしょう。
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「代打川藤!」
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へっ? 結果? 「大阪市で開かれるコンサート「1万人の第九」にちなみ、身に着
けた縦じまのユニホームの背番号は「10000」。スタンドの大観衆を前に、一八七セン
チの長身を生かした大きなフォームで第一球を投げた」と神戸新聞では報じられたし、
ラジオの中継では、「なかなかスピードのある球でしたねぇ!」と伝えられた。
ま・・・、内容に関しては、それだけにしておこう。だってさ、その時ジャイアンツ
に3連勝して、そして横浜に3連敗した直後でしょう。しかも岡田監督になって初めての
甲子園だもの、やたらピリピリした雰囲気で、横でピッチャー井川さんは目が血走って
るし、憧れのキャッチャー矢野さん(彼も「1万人の第九」つながり)は僕のために
ミットを構えてるし、主催者の毎日放送からは、「バックスクリーンに1万人の映像が
映りますから、それが終わり次第投げてください」と言うことだったのに、審判のおっ
さんが、タイガースの異常なピリピリ感を感じたのか「投げてください」(審判のおっ
さん)「へっ?」(僕)「すぐに投げてください」なんて言うから、せっかく理事長と
やった間を取る事もなく、ヒョイっと投げたのでした・・・。諸兄! 「サインに首を
振るなんざ、10年早いっス」。言っときますけど、ホームベースまでは届いたので、ワ
ン・バウンドではありません!
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矢野選手と共に
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贅沢な練習風景!
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さて、僕にとっては9年ぶりの名古屋フィルハーモニー。僕が若い頃副指揮者のオー
ディションに落っこちたオケなのだが、こうしてまた温かく迎えてくれたことに凄く感
謝をしている。それどころか、僕が試験に落っこちたことを今も気にしてくれているメ
ンバーがたくさんいて、僕なんかとっくに忘れているのに、それぞれがそれぞれにあの
時のオーディションの内容を熱く語ってくれる。久しぶりに京響以外の地方オーケスト
ラを指揮したが、いやー、なかなか素晴らしいオーケストラだ。ウィーン・フィルへの
対抗心なのか、ウィーンと名古屋、両者とも凄く気迫のこもった演奏で、このコンサー
トで出来た「幻想交響曲」はなかなかの出来だったと思う。
トヨタマスターズの公演の合間に、ゴルフのレッスンを2回受け、インタビューをこ
なし、兵庫の会議、そして今年初めて試みる「お寺でコンサート」の会議と大忙しだっ
た。このお寺でのコンサートは、浄土宗を代表するお寺、京都の知恩院と東京の増上寺
でこの夏に行うもので、シエナ・ウインド・オーケストラと親友ジャズトランペット奏
者の原さんとで行う。
僕は京都で育った。だから、当たり前のようにお寺で遊んだ。お寺には多くの学ぶも
のがある。子供の頃、誰でも「怖い話」が大好きで、それを実感できるのもお寺だし、
何気なく国宝を見ることもある。関東では「インデアンのふんどし」と言う10数える間
に動いてはいけない遊びがあるけど、京都では「ぼんさんが屁をこいだ」などという。
おまけに「臭いだら臭かった」までつけて、国を代表するお寺で遊んだものだ。お坊さ
んがいないのをいいことに始めたはいいが、お坊さんが来たら「ぼんさん、来たぞ―!」
と逃げるわけ。「生と死」それを何気なく学ぶのもお寺だろうし、「やってはいけない
こと」と、「思いっきりやっていいこと」を自然に学べるのがお寺だと思う。「寺子屋」
とは本当にいい言葉で、お寺で社会勉強は全てできると僕は思う。
コンサートホールのマナーもお寺だと思えばいいのであって、「美しいものを見る」
それでいて「他人に迷惑をかけない」と言うことなのではないだろうか。このコンサー
トでは、楽器に触れられたりするコーナーもあり、国宝のお寺を使って思いっきり音を
楽しんでもらおうという企画だ。そんな記者会見までした後、今度は兵庫県西宮市での
『こんにちは、佐渡裕です』という企画で2週間の素晴らしい時間を過ごす。この話は
また次回。
● 待望の休暇編 2004/5/17
1月は、パリのラムルー管弦楽団と、定期演奏会を2プログラムこなし、レコーディ
ングを行い、ナントでの音楽祭に参加して、演奏旅行もバチッリ決めた。久しぶりに
1ヶ月間ラムルーとべったり過ごした。オケのメンバーも僕がパリに長くいることは珍
しいということで、毎晩のようにパーティーに参加した。
ずっと前からの計画で、2月と3月、そして5月を完全に休むことにした。本当は
6ヶ月間のお休みを考えていたが、ドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌
劇場管弦楽団)からの仕事の依頼、そして、名古屋フィルとウィーン・フィルのメン
バーを中心とした、“トヨタ・マスターズ・プレーヤーズウィーン”のコンサートの依
頼があったので4月は2週間だけ指揮活動を行い、4月の残り2週間と、6月の2週間
を兵庫県での芸術監督としての仕事にあてた。
以前、1週間のお休みをもらったので、せっかくだからとハワイ旅行に行こうとした
ら、同時多発テロが起こり、乗った飛行機はそのまま大阪に戻ってしまたということが
あった。仕方ないので日本でゴルフを続けたら、突然腰痛で立てなくなり、結局1週間
寝ていたという苦い経験がある。まあ、次の年の9月には、めでたく「ワイハ」にいけ
たのだけれど、記憶としてちょっと長い休みはその1週間だけ。
ここ数年、年間公演回数は軽く100回を越えるようになった。他のジャンルの練習と
い、毎回、御相手のオケが変わるわけだから、3日練習をして、3日本番をして、1日
で移動するというパターンが続くことも多い。パリでの仕事は、ラムルー管弦楽団が年
間5週間程度。パリ管弦楽団やフランス国立管弦楽団が年3週間ぐらい。だから休みを
加えても、年間でパリに住めるのも2ヶ月から3ヶ月ほど。4ヶ月間は日本、それ以外
の5ヶ月がヨーロッパの他の国での生活になる。そんなわけで、パリのアパートにゆっ
くり住める事がなかなかない。もちろん、神戸の自宅も2年前に引っ越して、まだ3ヶ
月住んだかどうか...
そんなわけで、今回のお休みは思いっきりパリで過ごすことにした。何がしたかった
かというと、今更ながらなのだけど、語学に真剣に取り組んでみようということ。特に
公子は、今までずっと旅行生活を共にしていたから、語学学校に通うことは出来なかっ
たし、僕はなんとなく慣れで少ないヴォキャブラリーを駆使して生きてきた感がある。
週に3日は“ベルリッツ”に通うことにした。そして週に2日は家庭教師。何しろ、
何とか16年、ヨーロッパで生活をしてきたから、どこから語学をやり直すかは、判断す
る先生も大変。10段階あるベルリッツのレベルで、英語は8からのスタート。フランス
語は3からのスタートとなった。久しぶりの一対一の先生との授業。一日4時間もやる
と、脳みそがむずむずと動いていることが実感できる。きっと透明の頭皮を持っていた
ら、ピクピク動いている脳が、戸惑いながら収縮しているのがよく見えることだろう。
そして、時々透明のガラスはオーバーヒートした脳のせいで曇っていたに違いない。
僕の家庭教師は、友人の今北さんの長男カズ君。公子の家庭教師は次男の英二君。そ
れぞれ別の時間に家に来てもらった。二人とも凄く頭のいい青年で、今までの各国に住
んだ経験を生かし、英語もフランス語もまったくネイティブ。もちろん日本語もしゃべ
れるのだけど、カズ君と僕は「ハイここからレッスンを始めます」という合図で、まっ
たく日本語は禁止となる。もししゃべったら1ユーロの罰金。
授業の内容は、カズ君の得意な映画を題材にして、それを聞き取り、新しいヴォキャ
ブラリーを英語で質問、調べて、更に英語のサブタイトルでもう一度フレーズを確認す
るというもの。イヤー、これがなかなか面白い。少々時間はかかるものの、ジャック・
ニコルソンの映画を題材に、ぐんぐん内容に引き込まれる。カズ君はテキストを暗記し
ているから、口調まで真似てテキストを教えてくれる。最初こそノートにいっぱいに
なった新しい言葉も、回を重ねることに数が減り、結構普通の会話の時は英語で話すよ
うになる。またカズ君は、とても芸術のセンスがある人。もちろん英語での会話で、オ
ケと指揮者の関係、指揮者の音作り、巨匠達の練習風景など、映画だけにとどまらずど
んどん内容が増えていく。こんな授業だったら、誰でも英語が不得意になんてならない
のになあと思う。
音楽にも人によって得意不得意がある。確かに、演奏するには器用不器用というのも
あるし、ある程度長い時間をかけて得る特別な技術が伴うが、音楽を楽しむことに関し
て言えば、人による大差はない。何らかの形で、人の身体の中には音を楽しむ遺伝子が
必ずあり、それに蓋をするか、それともそれに目覚めて自らその奥深い面白い最初の
ページを開くか。最近、西宮のホールのことを考えるとそんなことを思っている。苦手
と敬遠していた語学も、もっともっと身近に楽しめるものなのだ。だって、こうしてカ
ズ君と興味溢れる会話を出来るのだから。もっともっと語学を身につけ、いろんな国の
人間と深い会話を交わしてみたいと今は思う。
もちろん、休みなのだから、ゴルフの練習も忘れていない。週に5日はゴルフにあて
た。そのことは「Far and Sure」で熱く語ることにしよう。
3月27日パリ郊外、ルパージュという演出家の作品を見に行った。他人の公演を見る
のも、休みでないとなかなか出来ない。彼は、前に松本で行われた“サイト ウ・キネ
ン・フェスティバル松本”でベルリオーズの『ファウストの劫罰』を演出しており、舞
台を上下に大きく利用し、ビデオを効果的に使い、まるでサーカスのように自由自在に
演者を操り、それでいてベルリオーズの描こうとする宗教感を充分に表現する見事な舞
台だった。僕はその衝撃的な舞台をビデオで見たのだけれど、あれから数年ずっと彼の
生の舞台を見ることに憧れ、実際の彼の舞台を見るのは、今回が初めてとなった。
話は少し変わるが、今進めている兵庫のホールの企画制作に、僕は良い演出家を探し
ている。僕にとって、一番影響を受けたのは栗山昌良先生で、彼の下、アシスタント指
揮者を6年間続けたことは今も大きな財産になっている。日本を離れ、このヨーロッパ
で自分の目で実際に見た舞台は200本近いと思う。そして、いくつかの作品を、自分の指
揮でも挑戦してみたが、なかなか良い演出家に出会っていないというのが実感...。
ヨーロッパの演出は、一時期やたらモダンに走った。作品の許される解釈の範囲を、
あえて超えようとする試みが多く見られ、奇をてらった演出、客を驚かす演出が大流行
の時期があった。舞台作りは自由なのだから、なんでも在りというのが事実なのだろう
が、いつもそうした演出を見て、ある種の嫌悪感と、「?」マークが僕の頭の中に残
る。どうしても嫌だった。
今回、ルパージュの演出を目の当たりにして、確かに斬新で、最先端のセンス、しか
しその質の良さ、発想の豊かさ、全てが新鮮だった。こんなに面白いものの見方がある
んだなぁと思った。しかしその「物の見方」というのは、彼がこの舞台のためにわざわ
ざ考えたものではなく、どこか深いところで、彼の身体の中にある自然な発想なのだろ
う。それが、彼が育ったカナダにヒントがあるのか、それとも舞台を勉強したフランス
からの影響にあるのか、それは彼に直接聞いてみないとわからないが、とにかく、何も
わざとらしいものがなく、ユーモアもあり、最高に興奮し刺激を受けた舞台だった。思
えば、久しぶりに他人の舞台で興奮をした。嫉妬に近いぐらいの感動かもしれない。ル
パージュ、きっといつか会える様な気がする...。
さあ、4月はドレスデン、そしてウィーン・フィルと名フィルとの演奏会。それが済
んだら、思いっきり西宮ホール周辺を自らの足で歩き、地元の期待感を一身に浴びよ
う。それが住んだらまた5月は再び1ヵ月のお休み。
● 2003年から2004年へ 2004/3/15
2003年を締めくくる仕事は、久しぶりに新日本フィルハーモニー交響楽団との『第
九』。そして、大阪センチュリー交響楽団と、もう10年も行っている、恒例のザ・シン
フォニーホールでの『第九』を、今年は3日間連続で行った。
有難いことに、どこも満員のお客さんが来てくださり、特に今年は有名人の楽屋訪問
が多かった。文化庁長官の河合隼雄先生、将棋の羽生善治さん、俳優の三國連太郎さん、
江川紹子さんなど、誰もが素敵に輝いていた。
やはりこの仕事を終えると、今年も一年を乗り越えたぞと言う気分になれる。『1万
人の第九』から始まった、今年の『第九』も良い締めが出来たと思う。
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羽生善治さんとは対談で知り合いました
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楽屋を訪ねてくださった三國連太郎氏
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ちょっとした自慢話があって、2年前の大阪の『第九』に河合先生が来てくださった
時、僕の楽屋での先生は、ちょっといつもと違う様子だった。「良かった! 元気に
なった。勇気付けられた。佐渡さんがそこまでやるなら、僕も一丁やったろかと思って
ね、どうしよう? と思っていたことがあったんやけど...」「やるわ...うん、
やることにしよう!」
「先生、誰にしゃべっているの?」と聞きたくなるような、ほとんど独り言を呟いて
先生は帰っていかれた。僕が驚いたのは、数日後、次の年の正月。それは我が事務所の
代表からの電話だった。「裕ちゃん、テレビ見た? 河合先生が小泉さんの指名を受け
て、文化庁長官にならはったで!」 えーっ! それが、あの時の独り言やったと言う
わけか! 僕はまた、先生が大事ないろいろな仕事を終えられて、それでも町内会長で
も引き受けるのかと思ってたのに...。
2004年の年明けは、ゆっくりとした気分でスタートした。実家にも挨拶に行き、初
詣にも行って、恒例の新年ゴルフ漬けは控え、一日だけのラウンドにした。にもかかわ
らず、ヨーロッパに発つ朝、明らかに熱があった。久しぶりに体温計を口に入れると、
38.5度...。飛行機に乗らなければならないので、とりあえず義理の父の男気溢れる
車の運転で関西空港にはどうにか向かうことにした。
空港には、前に『クレッシェンド・ボナペティート』でふれた、友人、九内秀樹がか
わいい彼女を連れて見送りに来てくれた。この夏、僕の力を借りることなく、自力で彼
女を見つけ、めでたく結婚式をすることになった報告だ。
そして、これまた僕らの友人であり、いまや兵庫のホールの大事なスタッフの一人で
もある山本克也も見送りに来てくれた。彼とは、毎日のように新しいホールのオープン
に向けて話をし、多くのスタッフとともにピリピリした会議の毎日だったので、この
ちょっとした空港での見送り時間では、本来の人懐っこい彼の顔に戻っていて、なんか
普段の僕らに戻れたように嬉しく思った。
高熱を出しながらの12時間の飛行は思いのほか苦痛だった。はじめのうちこそ、眠れ
たのだけど、一度目が覚めると、それから何度も寝ているのに、すぐに目が覚めて、時
計を見るとわずか5分も経っていない。それを何度も何度も熱にうなされながら繰り返
す。しまいに、時計の針が逆さまに進んでいるんじゃないかと思うほどで、今から思え
ば、かなり精神的にも参っていた。
公子が後で言うには、「裕ちゃん、飛行機の中で、ずっと『時間が戻ってる!』って
叫んでたで」まあ、この時点で熱は40度はあったと思われ、はっきり言って頭がおかし
くなっていた。目を覚ました時の機内の景色は毎回同じで、薄暗い中でアイマスクをし
ている人が気持ち良さそうに眠っている。こっちは熱があるのに寒気がしていて、3枚
の毛布に包まり、だんだんと息が荒くなってくる。本当に気が狂いそうな長い長い飛行
体験となった。
パリの自宅についても、一向に熱は下がらなかった。僕の場合、たいてい一日熱が出
て、あっという間に下がる。今回も一日の辛抱と思っていたのに、二日目は更に上がり、
三日目も下がりそうになく、あっさりと40度を超えていくので、さすがに緊急のドク
ターを自宅に呼び、公子がタクシーを飛ばして薬を買いに行ってくれた。
とりあえず、次の日に予定されていたラムルー管弦楽団との最初の練習はキャンセル。
その後、熱は下がる傾向を見せたが、何しろ次の公演の勉強をしなければいけない。
廊下を真っ直ぐに歩けない状態で、なぜか不気味な笑顔を絶やさず、メンデルスゾーン
の『真夏の夜の夢』の譜面を開いていた。勉強時間はもうろうとした中、ゆうに8時間
を越えた。
テレビ東京のドキュメンタリー『極上の休日』スタッフが2003年の秋からカメラを撮
り続けてくれていて、すでに100時間を越えるフィルムがまわっていたのだけど、当然彼
らパリにも飛んで待ってくれていた。だけど、申し訳ないことに、この高熱状態では動く
ことも出来ず、熱を出しているところはさすがによくないし、オケの最初の練習まで撮影
自体を遠慮してもらうことになった。
だけど、少々の熱があっても、いざ練習に行くとなると、これが不思議なもので、目は
ギンギンに目覚め、身体の中から、カーッとエネルギーが湧いてくる! 「こりゃ上手く
行くな」すでに演奏会の成功は、ここで決まっていたようなもので、そこから練習を終え
るとさすがに疲れが来るものの、まったく昨日とは別人のように音作りに没頭しだした。
メンデルスゾーンの素敵な作品『真夏の夜の夢』を皆さんは聴かれた事があるだろう
か? 音の喜びに満ちた曲、しかも繊細で、シェークスピアの原作を基に、語りがついて
いて、その役をアニエスというフランスの名女優が演じてくれた。
オーケストラは、この難曲を最高の機能で答え、そしてア二エスはシリアスな場面と会
場を大笑いに包む場面を上手く演じ切り、ラムルー管は僕との新しい一年のスタートを、
僕らにとって新しいレパートリーでおしゃれに出発した。そして、この演奏の模様は、先
に書いた『極上の休日』で全国放送され多くの反響を頂いた。
そういえば、この撮影クルーにまだ20歳になったばかりのアシスタントディレクター
の妹尾さんがいた。仕事が終わって、せっかくだからと僕と一緒に写真を撮ったのに、
ずっと彼女は目を瞑っている...。初めての演奏会で感動した彼女の閉ざされた瞼から、
美しい涙が零れ落ちていた。
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涙がとまらなかった番組ADの妹尾さんと
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● 「1万人の第九 2003」編 2004/1/19
シエナ・ウインド・オーケストラの定期演奏会とツアーを終えると、完全に『第九』
モードに突入した。
「サントリー1万人の第九」は僕にとっては今回で5回目。年々盛り上がりを見せるこ
のコンサート、はっきり言って仕込むほうは大変。でも大変だからこそやり甲斐があ
る。参加者の熱の入れよう、これを知れば知るほどこっちも熱が入る。「佐渡裕と1万人
の交換日記」をまだご覧になっていない方はぜひ覗いてもらいたい
( http://mbs.jp/daiku/2003/ )。
楽譜を読む苦労、ドイツ語を覚える努力、それはそれは想像を超える努力の賜物なの
だけれど、こんな大変さに挑戦出来るようならもう大丈夫! あとは先生がちゃんと導
いてくれる。第1関門はまず「よし、俺も一丁ベートーヴェンに挑戦してみよう!」と
思えるかどうか。
交換日記の話題の中でも大変面白かったのは、演歌好きのお父さんを娘さんが無理や
り「一緒に出たい」と誘い出し、そこからのお父さんの大奮闘。驚き、怒り、喜び、1
つの曲を通して、どんどん頑固親父がベートーヴェンにはまっていく様子が報告されて
いる。1万人の参加者には、それぞれにドラマがある。その想いがあるからこそ、1万
人で作る第九の意味がある。
しかし、僕の仕事は音楽を作ること。いい音にゴールはないからこそ、最後まで音を
求めなければならない。実は1回目から比べて、年々練習回数は増えている。3000人ず
つ行った合唱練習の成果があった1年目。ならばと、翌年からは1000人ずつの練習に切
り替えた。当然練習回数は、それだけで10回になり、1日3回という日も出てくる。
オーケストラの練習も、19年間プロのオケでやっていた時はわずか半日。プロのオケ
でやる以上日程的にそれ以上は無理だからしかたがない。ならばと、20回記念の2002年
には関西の大学生達を中心に作った“ユース・オーケストラ”に変えた。もちろん猛練
習の日々。今年は昨年より更に練習量を増やしてもらい、準備に準備を重ねた。
たった一度の本番。ビジネス的には困ったもんだ。普通の仕事なら、少ない練習回数
で数多く本番が出来るほうが良いに決まっているけど、「1万人の第九」はその全く反
対で、いっぱい練習しても本番は1回。しかも、自分で自分の首をしめてんじゃないかっ
て思うぐらい毎年練習回数増やしているし...。
だけれど「1万人の第九」を終えた後の、あの達成感、皆が優しくなれるという音楽の
魅力の再発見、「音楽以上の音楽」がそこにはある。
第九をメインにした一大イベント「21stサントリー1万人の第九」は今年も小倉智昭
が名司会をし、我らが阪神タイガースを代表して八木、矢野両選手がシークレットゲス
トに迎えての『六甲おろし』あり、森山直太朗と1万人の第九合唱団の『さくら』でこれ
また大感動。
直太朗君は良い! 売れっ子で忙しいだろうに、あれだけ真剣に取り組んで、本当に
気持ちの良い青年だと思った。なにより「さくら」は、本当にいい曲だ。
そして今回、役者として大活躍中の山本太郎君が1万人の合唱団の1人として第九に
初挑戦してくれた。最初の第一声から僕も特別レッスンをし、その後も、テレビ番組を
作ってくれたディレクターが同志社のグリークラブの出身者だったこともあり、譜読み
音取りドイツ語発音とできるだけ面倒を見てくれた。本当によく頑張ってくれたと思う。
しかし、彼の度胸は凄いね! ホントあの度胸があればどこでも何でもやっていける
んやろうなと思った。「1万人の第九」が本当に素晴らしいのなら、それをもっともっ
と多くの方に伝えなければならないし、だから、有名人にゲストとして来て頂き、その
おもしろさを多くの方に語ってもらうのは大変にありがたいのだが、「もしも合唱に参
加してもらうなら絶対に練習をしっかりしてもらわないと参加者に失礼だ」と僕はずっ
と言い切ってきた。そして、山本太郎君は過密なスケジュールの中(参加者の皆さんもそ
うなのだけど)本当にまじめに取り組んでくれたなぁととても感謝している。
5年間で色々な進化をとげてきたこのコンサートだけど、毎年それぞれ違って素晴ら
しい。終えるたびに「人ってすばらしい」と思えるこのコンサート、永遠に人々に愛さ
れるだろうと僕は思っている。
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公演直後に森山、山本両氏と
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● スーパーキッズ・オーケストラ公演編 2004/1/8
11月、パリ管弦楽団の公演を終えてすぐに神戸に戻った。この夏から猛練習を続けて
きた「スーパーキッズオーケストラ」が、いよいよ最後の練習を経て、明石市民会館で
初公演を迎えた。2年前の夏、子供たちの事故のあった街、明石でこの“スーパーキッ
ズ”を誕生させることに大きな意味があったと思う。
街が大きな協力してくれた。事故の遺族の方も聴きに来てくださった。オーケストラ
のチビッコ達にも、なぜここで演奏会をするか、そしてなぜアンコールに祈りの曲であ
る「G線上のアリア」を演奏するか伝えた。チェロの11歳の誠治は、3回の演奏会とも
涙しながら弾いていた。
子供たちに「夢を持つこと」と、夢を持たない大人が言ってみても仕方がない。この
スーパーキッズオーケストラは、夢を一杯持った大人から子供たちへの贈り物。だから
こそオーディションがあり、勇気を出した子供たちが集まるオーケストラ。指揮者の僕
も、ラムルー管弦楽団のメンバーも子供たちと共に合宿をし、言葉の壁も簡単に乗り越
えて、猛練習を積み、一緒に遊ぶ。
そして、みんなでどうしたら演奏会が楽しくできるか考え、僕も9歳のヴァイオリニ
ストも、先生と生徒の関係ではなく、共に音楽家として舞台に立つ。
僕は決して神童などではなかった。実際、今回のオーディションに立ち会ってみて、
子供たちのレベルの高さに正直驚いた。僕が子供の頃、ここに選ばれた20人のような才
能は無かったけれど、色々な素晴らしい大人達との出会いが僕にはあった。夢を持った
大人と、選ばれた彼らが、これからも一杯出会っていくことを心から願っている。(プ
ログラムノートより)
最後の演奏会が山崎町で無事に終わった。みんな、本当によくやった! 舞台を降り
れば、快獣みたいなお前らだけど、「よく食べ、よく遊び、よく練習をする」スーパー
キッズの第一期生として、みんなで見事な演奏会を作ったね。ずっと皆の世話をしてい
た山本のぐちゃぐちゃになった泣き顔、お前らが創った不思議な音の力で、彼の苦労も
喜びに変わったよ。誰よりも頑張ってくれたのは山本のおっちゃんやな。
子供たちと別れを惜しんだ演奏会後、ラムルー管のメンバーと僕は、公子の実家でお
茶をたててもらい、すき焼きパーティーをした。昔ながらの日本家屋(震災で全壊した
が)を見てもらい、公子の着物姿も初披露。蓄音機でラムルー管のSPを聴き、そして
腹いっぱい、皆で神戸牛を食べた! 今年、最高の日になった。
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