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● 京都まとめて恩返し企画編 2003/12/6
話は少し戻るが、この10月『佐渡裕、京都まとめて恩返し企画』というのを行う為
に日本に2週間戻った。
思えば、京都市立の小学校から市立大学まで、そしてもちろん仕事場として京都市交
響楽団との長年のお付き合いと、ずっと僕は京都市の税金で育ててもらった。まさに
“京都市立佐渡裕”。
また海外に出て、いかにこの街がすばらしいのかにも気がついた。そこで桝本京都市
長に直接手紙を書き、その結果、本当に心からのご賛同をくださり、街ぐるみでこの大
きな企画を支えてもらうことになった。実行部隊は京都市教育委員会。教育委員会と今
までこんなに一緒に仕事をした記憶はなかったが、いやー、本当に子供のこと、街のこ
と、真剣に考えてくれているなぁと感心した。
社会が物凄く複雑になり、特に少年たちのさまざまな問題に直面しながらも、正面か
らいろんな課題を受け止め考えて熱心に仕事をされていて、心から感動し嬉しかった。
特に今回中心になってくださった藤田さん、そして瑞慶覧(ずけらん)さんには、本当
にお世話になった。これからもわが街京都の子供たちに多くの愛情をそそいで貰いた
い!
初日は知恩院の国宝に認定されている御影堂で、建築家の安藤忠雄氏と、河合隼雄文
化庁長官のお二人と鼎談を行った。それぞれ個性的な人間ばかり集まったが、安藤さん
は本当に「侍」といった感じがした。何度も「言ってること、おかしいやん!(笑)」と
突っ込みを入れかけたが、さすが世界の安藤忠雄、説得力には圧倒されたなぁ。
河合先生は前から色々とお話をさせてもらっているが、二人のはちゃめちゃな内容を
上手く話をまとめてくださり、それでいていつもの「河合風」が炸裂。特に寒い日だっ
たのだけれど、途中、突然先生がトイレ退出をされたのには、まるで「御長者クイズ」
のようで笑った。
僕はと言うと、時差ぼけで寝不足が続いているのと寒いのとで、鼎談の最中脚が攣っ
ていて、安藤節に突っ込みを入れるタイミングをはずしたのは痛みをこらえていたから
のような気もする。まあ、初めての出会い。これからまたこういう機会があるといいな
と思う。とにかく知恩院御影堂という特別な空間で、熱心な耳を持つ人々の前で色々と
意味のある話ができたことは、京都という土地にふさわしい、また大変有意義な時間
だったと思う。
やはり同じ日から、各区の小学校で音楽の授業とそれぞれの学校での保護者、地区の
先生との懇談会を行った。子供たちとの出会いは、今までにもいろんなところでやって
きたが、やはり自分の街となると、「俺は先輩だぞぉ!」という気になるから不思議。
そしてどこでもそうだけれど、先生方との話し合いは特に大事だと思う。特別音楽が
好きな子供が一杯いるということが無いように、音楽が物凄く得意という先生もそんな
にいない。先生も指揮者もいつまでも勉強。人前に出る商売なのだから当たり前のこと
だけれど、先生の自信のなさで子供たちに与えられないものがあるとしたら残念なこ
と。 だけれどその為に音楽が嫌いな子供は作っちゃいかんと思う。いや、先生を責めて
いるのではなく、心から応援したい!
実際僕自身が、全国でこうして音楽の授業を繰り返してきて、多くの素晴らしい先生
にも出会った。いつか、そうした素晴らしい先生の工夫をどこかで大きく取り上げ、先
生のアイデアでできた“ヤング・ピープル・コンサート”をいつか作りたいなぁ。
そうそう、京都市教育委員会は、頑張っている先生を表彰したり、激励する一方で、
やる気のない先生や指導力に問題があって、どうしても改善されない場合にはここ5年
間で60名の先生に辞めてもらったとか。これは伝える側もとても勇気のいること。しか
し、大事なのは子供たちなのだ。子供たちにも厳しく、そして先生にも厳しく、それこ
そ真の愛情なのではないだろうか。
桂川中学校をモデルバンドに吹奏楽の指導をした。曲目は、この夏の富士山河口湖音
楽祭でも選抜の中学生バンドで取り上げた『アフリカン・シンフォニー』このバンドの
先生は大学の先輩。先生から事前に頂いたメールにはこう書いてあった。
『セレモニーもできるだけ省いて、生徒に少しでも多く指導してもらえると有り難た
いです。決して上手くはありませんし、反応も十分ではないかもしれませんが、吹奏楽
が好きで素直な良い子です。生徒は感動のあまり、緊張して上手く反応できないだろう
と思いますが、来てもらえることだけで感激しています。よろしくお願いします。私は
技術重視の指導でなく、音楽の楽しさや活動の楽しさを知り、卒業後も音楽の理解者で
あることを願って指導しています。十分な指導できていませんので、失礼が多々あると
思いますが、許して下さい』
このメールだけでも、先生がどれだけ子供のことを思っておられるかが伝わると思
う。子供達は期待していた通り! 緊張しながらも、目をキラキラと輝かせていた。音
楽とは技術を争うだけではない。技術の優れたものはプロの道を目指せばいい。だけ
ど、先生が書いておられるように、「活動の楽しさ」これがこの時期の子供たちが音楽
を体験する最も大きな意味だと思う。プロになるものも、もちろんなった僕も、今楽器
を触っているものにとっても、音楽の楽しさやみんなで作る喜びこそが持ち続けなけれ
ばならない大事な宝物。それこそ教育の場だと思う。
桂川中学の指導を終えた午後、僕が小学校5年生から中学校3年生まで5年間在団してい
た京都市少年合唱団の特別練習を産業会館シルクホールで公開した。ここで僕はみんな
で作る音楽の喜びを叩き込まれたのだと思う。声は理想の楽器。最も表現しやすい、一
番身体に近い楽器と言える。それだけに出来上がる音の結果は非常に顕著に現れる。音
楽作りに「心」は大事。僕はここで、一人一人が音を作り、みんなの力を合わせて音作
りをすることを素晴らしい先生達に教えられた。
そしてその代表として、今年80歳になられた福澤先生がこの特別練習に参加してくだ
さった。先生は僕にとって、いまでもカラヤンよりも、バーンスタインよりも、小澤征
爾よりも憧れの指揮者。先生の言葉で一番よく覚えているのは、「合唱は鎖のようなも
の。一つ一つの輪がしっかり繋がっていれば力強いが、一つでも弱いと簡単にバラバラ
になってしまう」そんな教えを叩き込まれた卒業生も久しぶりに同窓会も兼ねて集ま
り、現役のメンバーと一緒に歌った。みんなと再会できたこと、そして現役のメンバー
達に僕ら卒業生の誇らしげな顔を見せられた事がとにかく嬉しかった。
福澤先生の指揮で僕も合唱団の中で歌った。まるで気持ちは中学生の頃に戻った。隣
で歌っている少々音程の外れた先輩の声、子供の頃憧れながら見ていたソプラノの美し
い先輩の顔、本当に懐かしかった・・・。そして、福澤先生の指揮は、流れるように綺
麗で、そして僕らの気持ちをしっかりと結びついた鎖にしてくれた。
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別の日、母校京都芸大のオーケストラを指導に行った。僕の大学時代、それは最も
迷っていた時期。年齢的に誰でもそうだろう。「将来どうしよう」、「音楽で飯が食っ
ていけるのか」、「まあどうにかなるさ」若いだけに轟々と沸きあがる力と、悶々とす
る不安とで一杯の時。そして思い返せば、周りの大人達はどれだけ自分の悩みを拾い上
げようとしてくれていたのだろうか?
今回の後輩との出会いは、そういう環境にいるであろう彼らたちに、「勇気あるもの
には、未来がある」ということを伝えたい気持ちで一杯だった。エグモント序曲を1時
間ほど練習し、最後に通して演奏をした。そして指揮台から彼らに声をかけた「何か僕
に聞きたいことはないか?」予想はしていたことだが、誰からも質問がなかった。そし
て、「じゃあ帰る。だけれど、この瞬間にみんなはチャンスを逃したことをよく覚えて
おけ」と厳しく伝えた。
京都芸大は、1学年が60名の小さな大学。一人一人の技術は充分に高く、しかもこれ
からどんどん成長する素質充分な学生達だと思った。だけど、喰らいついてくる心がな
い者に将来は無い。僕がリハーサル室を立ち去る時、残されたメンバーは悔しかったろ
う。いや、もしかしたら、今の学生達はそんなことすら感じていないのかもしれない。
ただ、一人でも本気で音楽家を目指そうと思うなら、彼らに大きな可能性があるという
ことをわかって欲しい。しかし、それには喰らいついていく覚悟が必要だろう。コン
クール受賞者を最近多く出している京都芸大だが、本当の大学の意味はもっともっと一
人一人の志に現れると思う。
最後は京都コンサートホールで行われた、近畿音楽研究大会での記念講演。京都市立
音楽高校のオーケストラを使って講演を行った。近畿地方の音楽の先生方が幼稚園から
高校まで集まり、本来ならお話だけをするのだが、実際にオケを使って音楽作りをお見
せしたほうがいいと思い、合唱の練習なんかも間にやったりして、原稿も持たず持ち時
間の予定時間を遥かにオーバーして大盛会に終わったと思う。
実際の音作りのことは、自分でも何を話したか記憶に無いので、ここには書けないけ
れど、音作りにおいて、イメージを与える事の大事さ、演奏者に想像させる面白さな
ど、具体的にどうしたら楽しいものになるのかということは実感していただけたと思
う。「音楽は楽しいもの」そうありたいが、「頑張れ」とだけ言い続けても「音楽は根
性でやるもの」と言っているのとなんら変わりはない。最も子供達に影響を与える先生
達に、僕の言葉から何か見つけていただき、更に独自の工夫を加えてもらい、いっそう
楽しい音楽の授業を展開していただければと願うばかりだ。
その間に京都市交響楽団とのコンサートもあり、「ここまで声とは枯れるものか」と
思うぐらい声がガラガラに潰れたけれど、この2週間、多くの子供たちと接することがで
き、そして直接指導される先生方とも多くの意見交換ができたと思う。しかし故郷とい
うものは、なんとも心を暖かくしてくれる場所だ。親との出会いはもちろん、自分が子
供の頃、出会った先生方のちょっとした言葉で大きく成長し、子供の頃の夢だった指揮
者になったわけだから、音楽だけとっても、僕自身を作った大半の経験はこの京都で得
たものだと実感した。
もちろん京都を飛び出した後、小澤征爾、レナード・バーンスタインとの出会いや、
海外での経験も大きなものだが、これからも自分が成長する上で、この京都で育ったと
いう僕の背景は大きな意味を持つだろう。改めて、桝本市長を始めとする、市教育委員
会の皆さんに感謝の気持ちを伝えたい。
最後に、今回は訪れることができなかったのだが、自分の出身校「四条中学校」の吹
奏楽部の事がいつも僕の頭の中にある。きっと今も、僕が在籍していた頃と同じで、決
してレベルの高いバンドではないのだろう。だから遠慮しているのではないかと想像で
きる。しかし、僕は彼らから「来てください!」と言ってくるのを待っている。自分達
のバンドが上手かろうが下手だろうが僕はまったく気にしない。ただし、誇りのあるバ
ンドであって欲しい。僕にとって、大事な後輩のことなのだから、生徒が来て欲しいと
いうなら必ず行く。
● フランスの3つのオーケストラ編 2003/11/22
話は少し戻るけれど、10月の始め、僕と“コンセール・ラムルー管弦楽団”との10周
年を記念した演奏会を行った。思えば1993年、当時僕は“ボルドー管弦楽団”の指揮者
を離れて、主に日本の仕事が始まりだした頃だった。
最初にラムルー管とは客演指揮者として出会った後、首席指揮者のタイトルを最年少
で頂いた。「歴史は十分、お金は無し」というオーケストラの状況だったけれど、僕も
若かったし、何よりラムルー管は常に最高の演奏でこの10年間僕の要求に答えてきてく
れた。
シーズン中、3プログラム以上の定期演奏会を指揮し、日本では演奏をしていない珍
しいレパートリーも随分と積極的に取り上げた。特に、イベール、シャブリエ、ドビュ
シー、サティ等、フランスでもなぜかあまり演奏をしないフランス音楽にスポットをあ
てたのは、僕にとっても大きな財産になった。
演奏会の回数を重ねるごとにお客さんの数は増え、97年の1月の演奏会ではダフ屋が
現れるという人気ぶりにまでなった。
また、それとは裏腹に、本拠地だった「サール・プレイエル」との揉め事で経営難と
いう現実にも直面し、入場料をみんなで山分けして、一人当たり数千円でのギャラで公
演をこなさなければいけない時もあった。
しかし、メディアの強力な応援と、メンバーの強い強い音楽的な欲求で演奏会を成功
させ、何とかこうして10周年を迎えられたことは感慨深い。ひとえにファンの方の暖か
い支持が、ここまでやってこられた大きなエネルギーだったと思う。近いうちに、この
オケの歴史の10分の1を僕が背負ったことになる。
10周年の記念演奏会は、まず「シャンゼリゼ劇場」のロビーからスタートした。毎回
演奏会の直前に、その日の演目を使って、短い音楽レッスンを行ってきたのだけど、こ
の日はこれからのラムルーと僕の兵庫プロジェクトの紹介ということで、兵庫の「スー
パー・キッズ・オーケストラ」の合宿風景のビデオが流された。
事務局長のジャンリュックが撮った日本の子供とラムルー管の首席奏者が混ざった六
甲山での映像は、とってもおしゃれに編集してあり、ロビーでビデオを上映し大きな拍
手が送られた。そして実際にスーパーキッズに参加しているパリ在住の横田誠治くんの
素晴らしいバッハのチェロ演奏でフランス人の聴衆をわくわくさせた。
演奏会はジョン・ウィリアムズの『オリンピック・ファンファーレ』で始まり、ファン
ファーレの後、10年目にして始めて僕はフランス語でスピーチをした。「ラムルーは
シャンペンの泡のようです。美しく、それでいてどこに飛んで行くか指揮者の僕にも本
番になってみないとわからない。だけど、その裏切りが僕は大好きです。」会場に笑い
が起き、オケからは小さな声で「ごめん」という声が聞こえた。
この時期、僕は首席客演指揮者に就任している古巣ボルドー管弦楽団とワーグナーの
オペラ『ローエングリン』の本番とオーケストラの定期演奏会のリハーサルも同時進行
で行っていたので、できるだけ僕には負担の少ない形で参加してほしいと、2曲目は僕
のアシスタントのヤニックが『ラムルー管とユタカのための思い出』と言う新しい曲を
書き指揮をした。
僕の方はと言うと、今まで一度も客席で聴いた事のないラムルーの演奏を、家内がい
つも座るバルコニーの特等席で楽しんだ。まったく僕に内容を知らされていないこの曲
は「YUTAKA」 と「LAMOUREUX」と言うアルファベットを音符に置き換え、二つのメロ
ディーで構成されたイントロで始まった。
その後は僕と彼らの10年間のレパートリーが次々といろんな形で現れる。ラヴェルの
『ボレロ』はもちろんのこと、途中に登場したバーンスタインの『ファンシー・フ
リー』ではオケのジェネラル・マネージャーのジャンリュックがなんと歌手として大胆
にも舞台に登場。まじめな顔をしてほとんど音程ない状況で歌い(爆)、スタッフのナ
イマがトロンボーンをブビ〜と鳴らし、ステージマネージャーのステファンがギターを
ずっと同じコードでポロンポロン弾くという微笑ましいシーンもあったり、僕と公子の
席の後ろに4人の管楽器奏者が現れ、僕らのためにベートーヴェンの7番をセレナーデ
風に演奏したりと、おしゃれなアイデアで溢れていた。
一番驚いたのは、ベートーヴェンの『第九』のあのフレーズが出た時、最上階の客席
に合唱団が仕込んであり、突然あのメロディで会場中が大合唱になったこと! 演奏
後、会場のシャンゼリゼ劇場は僕とラムルー管への愛情一杯の拍手に包まれた。
休憩後のメインの曲目は、僕の指揮に戻ってショスタコーヴィッチ5番の交響曲。そ
う、この曲を演奏した97年に、2300人も入るサール・プレイエルが超満員になり、ダフ
屋が出たから、僕らには勝利の曲なのだ。
ラムルー管の過去の記録を見ると、最もお客さんが入らなかったのは、随分前、ショ
スタコーヴィッチの息子のマキシム・ショスタコーヴィッが指揮をしたショスタコー
ヴィッチの交響曲の演奏会。この会場で400人ほどの入場者数だったのだから、その人気
のなさがわかる。
それはさておき、今回も超満員の中、いつもながらに交響曲を熱い熱い演奏で終える
と、舞台の天井から大きなハートがおろされてきた。そこにはお客さんからの多くの
メッセージが張られていて、僕らを驚かせ、この日の最高のプレゼントになった。僕と
ラムルーの間に契約書はない。「ユタカがラムルーを好きな間は振って欲しい」という
ことで、それだけでも僕らの関係を説明するに充分だろう。
演奏会後はちょっとおめかししてパーティがあった。その時の公子との2ショットも
おまけでお見せることにする。演奏会の模様は、フランスのラジオ局「ラジオ・クラ
シック」で放送される。
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10周年コンサート後のレセプションで
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このコンサートとほぼ同時期、パリから500km、東京と大阪ほどの距離があるボル
ドーでは、その前から行っている『ローエングリン』を週に3回のペースで公演し、さ
らにオケの定期演奏会も進めていた。曲目はリヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』を
メインにしたプログラム。この曲は僕がずっとやりたいと思っていた曲。今まで何度も
演奏会で取り上げようとしたのだけど、なぜか不思議なことに、この曲が入っている演
奏会でいつも体調を壊してしまい、今までに3回もキャンセルして実現しなかった曲。
僕が子供の頃のお気に入りは、EMI盤のカラヤン指揮ベルリン・フィルのレコー
ド。小学生の頃には何度もレコードを聞きながら指揮をしていた。またラムルー管のラ
イブラリーには、シュトラウス自信が細かくメモした楽譜が残っており、ずっとこの楽
譜を使って指揮をしてみたいと思っていた。
リヒャルト・シュトラウスを指揮するというのは、少し特別な指揮の技術が必要なの
だと思う。例えば、複雑な楽譜は実は単純に整理できる。だから、楽譜の整理、分析能
力がとても大事。そして、音を飛ばせる指揮技術が必要だ。いつも僕が言っていること
なのだけど、音には距離感があり、リヒャルト・シュトラウスの曲の演奏が上手く行く
には、「ビュン、ビュン」とホール中に音を飛ばす指揮をしなくてはならない。
もちろんそれに答えられるオケの技術がなければならないが、それぞれの音が空中を
飛び交うように作ることができるとリヒャルト・シュトラウスはとても面白い。『ロー
エングリン』を公演中には「こんな忙しいときに『英雄の生涯』とは、またキャンセル
も起きるか…」と心配していたが、これで無事に憧れの曲をまた一つレパートリーとし
た。
ボルドーを終え2週間日本に帰り、再び舞台はパリ。今度は名門“パリ管弦楽団”の
定期演奏会の為に舞い戻った。こちらはベートーヴェンの『コリオラン』序曲と交響曲
7番で、バーンスタインのヴァイオリン協奏曲『セレナーデ』を挟むプログラム。
『コリオラン』序曲は今までにもやった事があるが、なかなか難しい曲。どう難しい
かというと縦の線で曲ができている部分がなかなかテンポが決まらない。表示してある
テンポは速いのだけど、それをそのままオケに与えても充実した音は得られない。もち
ろんオケの能力と背中合わせなのだけれど、テンポというのはコンサート会場の音響条
件にも大変関わってくる。
この時期、パリ管はジプシー生活に入る。つまり、本拠地の「モガドール劇場」は、
キャバレーになり『カンカン踊り』を上演しているため、パリの端のまるで工場のよう
なところで練習。音がワンワン鳴る。それに比べ、本番を行う“シャトレ座”は、物凄
くデッド(響きの少ない)なホール。本番の響きを想定して練習しなければ本番でテン
ポを変えなくてはならなくなる。
今回の公演で大きな成果を挙げたのは、この『コリオラン』を充実して鳴らせたこ
と。最初の音から胸ぐらを掴まれたような音がした。やはりベートーヴェンは気迫が大
事。
2曲目の『セレナーデ』は恩師バーンスタインの曲ではあるが、初めて挑戦する曲。
年間100公演以上をこなす僕のスケジュールで、こうした新しい曲を入れるのは大変だけ
ど、今年は『椿姫』や『ローエングリン』等のオペラに取り組み、リヒャルト・シュト
ラウスやこの『セレナーデ』という大事なレパートリーにも挑戦。
今年取り上げた曲は他にもあるけど、自分の目指すクオリティを維持し、しかも新し
いものを生むには大きなエネルギーが必要。考え方としては「日本で、日本語で練習し
て、ヨーロッパに持って行く」と言うやり方もあるが、僕はやった事がない。なぜなら
日本には常にヨーロッパで作り上げたものを、お土産として持って帰って来たいから。
だから、兵庫のオーケストラが始まったら、一杯一杯、まだ皆さんが聞いた事のな
い、僕の新しいレパートリーを披露することになるだろう。
● ボルドーでの『ローエングリン』編 2003/10/15
9月に日本を発って、すぐにボルドーに入った。ワグナーのオペラ『ロー
エングリン』とオーケストラの定期演奏会を古巣ボルドーで行うためだ。僕
にとっては名古屋でやった『さまよえるオランダ人』以来、2回目のワグナー
への挑戦。第1幕が1時間、第2幕が1時間20分、第3幕は1時間10分、休
憩を合わせると終わるのは4時間をゆうに越える。
オーケストラは、大規模な3管編成。それとは別にオーケストラ・ピット
以外に(つまり舞台上あるいは舞台裏に)トランペット12本、トロンボーン
4本、ホルン4本、ティンパニを含む打楽器群。有名な結婚行進曲の部分では、
ピット以外にもう一つのオーケストラが活躍をする。
そして他のワグナーの作品でもそうだが合唱が大活躍をする。今回は50名の
男声合唱と30名の女性合唱を用意してもらった。第九などから比べれば少なく
感じるかもしれないけれど、劇場で80名の合唱は結構豪華版。ボルドーのコー
ラスはもちろんプロだけど、ここだけでは足りずナンシーのオペラから合唱団
ごと出演を頼んだ。
演出はイタリア人のジュゼッペ。まだ30歳を過ぎたばかりのとても才能のあ
る人。思いの他限られた予算の中で、舞台装置をほとんど使わず、照明と演者の
距離感で緊張のバランスを見せる。色の感覚が素晴らしい。
歌手のほうはなかなか苦戦。まあ、大曲だからとにかくスタミナを使う。本当
にどの役も相当タフでないとやっていけない。特にテノールのローエングリンに
関しては、散々歌った挙句にこれでもかとばかり最後の最後でアリア(とは呼ば
ないけれど)がやってくる。何度も声が裏返る危険と遭遇しながら、こっちは
「向こうが疲れてきたな」と感じると、ちょっとだけテンポをあげ、「今日は調
子がよさそうだ」と思うとたっぷりと振る。しかし歌手というものは面白いもの
で、調子が悪いと当然次の音を取りに行くのに時間がかかる。だからほって置く
と凄く遅くなるし、ますます喉を疲れさせることになる。この辺の指揮加減が最
も難しい。
今回は6回公演を行った。そして毎回毎回が生き物のように別の性格を持って
いた。もちろん、オペラにつき物の「事件」も色々と起きた。ある日は突然オケ
ピットの照明が落ち演奏不可能になったこともあった。最終日はバスクラリネッ
ト奏者が、本番前に食べた何かにあたったのか、体調不良でひそかに退場。第2
幕以降は、他のクラリネット奏者が休憩中に楽譜を確認して、バスクラのソロを
自分のパートと持ち替えで吹くという芸当も見せた。
しかし、きつい本番が続いたけれど、どれも集中力を維持してやり通せた。批
評は「ルモンド」と「フィガロ」、両紙が絶賛してくれた。まずは成功と言って
いいだろう。
これで、ボルドーでのオペラは『コジ・ファン・トゥッテ』に始まり、『マダ
ム・バタフライ』『ローエングリン』と終了。これは自分自身が立てた計画で、
アンサンブルオペラ、イタリアオペラ、そしてオペラの究極ワーグナーと、一通
り2年の期間で、しかもできるだけインターナショナルなキャストでやってみよ
うと思っていた事が実現した。
計算外だったのは、この間にエクサンプロヴァンス音楽祭の『椿姫』が入り、
イタリアオペラにヴェルディが加わったことだ。これは非常にいい経験になった
けれど、とにかく今年は約18週間をオペラに費やしたことになる。この経験は、
兵庫のホールのオープンを頭に置いている。
今回大変だったのは、『ローエングリン』をやりながら、ボルドーのオーケス
トラの定期演奏会を引き受けていたことだ。曲目はリヒャルト・シュトラウスの
交響詩『英雄の生涯』がメイン。 実はかなりいわく付きの作品で、僕が今まで
ヨーロッパで体調を崩し、やむをえずキャンセルをしてしまったコンサートが、
『英雄の生涯』だった。おまけに今回はコンセール・ラムルー管弦楽団への指揮
者就任10周年記念コンサートもあり、「こりゃ、また体調を崩すかも...」と、
少々心配をしていた。
ここにその期間の僕の日程を書こう。
水 : 夜・『ローエングリン』2日目の本番。
木 : 朝から夕方・『英雄の生涯』を含む練習 その後ボルドーからパリへ移動。
金 : 朝・ラムルー管の練習。終わり次第また列車に飛び乗り、
夜・ボルドーで『ローエングリン』3日目の本番。
土 : 朝・パリへ移動 そのままラムルーの練習場に直行
練習後、ラムルーと兵庫でのイベントについての会議あり。
日 : 朝・ラムルー管10周年コンサートの最終練習。
午後・コンサート パーティに出て、その後兵庫の会議あり。
月 : 朝・列車でボルドーへ移動
夜・『ローエングリン』の4回目の本番。
火 : 朝から夕方・『英雄の生涯』プログラムの練習。
水 : 朝・ボルドー管の最終練習
夜・『英雄の生涯』で定期演奏会。
木 : 夜・『ローエングリン』5日目本番。
金 : 夜・定期演奏会プログラムで演奏旅行。
土 : やっとオフ!
日 : 昼・『ローエングリン』最終日! 終わり次第パリへ帰宅。
そして今、夜中の2時過ぎ。さっそく佐渡日記を書いている…
夏休みの宿題をやっとやり終えたよう。『英雄の生涯』、そしてラムルー管との
10周年記念コンサートのことは、また別の機会に書くことにする。明日は1日、パ
リの自分のゴルフコースで過ごし、夜は寿司を食べに行こう! 明後日には「京都
恩返し企画」のため、多くの子供たちが楽しみに待ってくれている京都へ向け、パ
リから関空へ飛ぶ。
● 2003年夏総集編 2003/10/11
この夏の日本での仕事は本当に忙しかった。子供の頃からの「夏のイメージ」ってある
じゃないですか? まず休みが一杯あって、泳ぎに行くだの、遊園地に行くだの、田舎に
行くだの...、まぁ、この夏は天候もおかしかったけど、「俺の夏はどこに行ったの
!?」って感じだった。
6週間の日本滞在のうち、神戸のマンションには1週間ぐらい帰れたかな? それも夜
だけ。 仕事のとんぼ返りの最中に何度もマンションの前を通っては素通りしたもんな。
忙しいことはありがたいことですが、まあ普通に休みも欲しいっすぅ...。
ざーっとこの夏の内容を思い出して行くと、まずは、横浜みなとみらいホールでの
「2002FIFAワールドカップ1周年記念コンサート」。今年も札幌には行けなかった
けれど、パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル(PMF) のオーケストラと
一緒に演奏会ができたことは嬉しかった。
PMFが日本にあるってやっぱり凄いことだと思う。何しろバーンスタインが自ら命
を懸けて作ったアジアで最初の大規模教育音楽祭なのだから、これからも札幌の皆さん
に大事にしていただきたいと思う。僕にとっても大事な場所であり、最初の開催から約
10年間、毎年1ヶ月を過ごしてきた「夏の思い出」が一杯詰まった街。あの1990年の
レニーの本番を聴いた人が、あの時レニーと一緒に過ごしたスタッフが、これからもレ
ニーから贈られたメッセージをぜひとも大事に大事に育てていって欲しい。もちろん、
レニーには直接会っていないけど、PMFの面白さを感じてくださっている方は、その
メッセージをしっかり受け取ってもらったと言えると思う。
みなとみらいでの演奏会を終え、8月5日、僕は「渡邉暁雄音楽基金」から音楽賞を頂
いた。大変嬉しいことに、同時に京都市交響楽団のスタッフである渡辺正治さんも特別
賞を受賞された。故渡邉暁雄先生は僕が子供の頃、京都市交響楽団の常任指揮者だった。
僕自身は渡邉先生とは直接お話しする機会はなかったが、何度となく京響を指揮される
演奏会には足を運んだ。
ツネさん(渡辺正治さんの愛称)はもともと京響のホルン吹きだった。僕がオペラの
副指揮者をしている頃から、よく声をかけてもらった。だからもちろん、僕の修行時代
からデビュー当時、そして現在までずっと見てくれている人だ。渡邉先生の下で吹いて
いたツネさんと、そこで育った僕と、“メイド・イン・京都”が二人も東京の全日空ホ
テルで受賞したのはちょっと嬉しかったなぁ。「京響万歳!!」って感じでした。受賞
者それぞれのスピーチのとき、ツネさんはずっと照れくさそうにお尻を掻いていたのが、
なんともかわいかった。この賞は指揮者の岩城宏之さんが渡してくださった。思えば約
10年前、出光賞を取ったときも岩城さんが僕を選んでくれた。本当に粋な人だと思う。
さて、関西では今年で5回目になる『佐渡裕のヤング・ピープルズ・コンサート(Y
PC)』を開催、そしてついに今年関東初上陸を果たした。関西では新しいプログラム
で、関東では2年前のリバイバルで、シエナ・ウインド・オーケストラと共に演奏した。
両方ともジャズトランペット奏者の原朋直さんをゲストに迎え熱い共演。原さんに久し
ぶりに会ったら、また上手くなっていて驚いた。マイクも使わないで、どんな会場でも
気持ちよく鳴らしてくれる。鳴らせるというのは楽器を吹く、あるいは聴く楽しみの基
本だけど、あれだけ楽器を鳴らしきる人はそうたくさんはいないと思う。関西版では原
朋直ニューヨーク・カルテットとの共演。いや〜ぁ、これがまた本当に素晴らしかった!
特に今回はリズムがテーマだったのだけれど、ナシートのドラムにはやられたな。
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原さんとのコンビは、ますます絶好調!
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先に忙しくて大変と書いたけど、夏のツアーが終わる時に、ずっとこの夏一緒に移動
してくれていた親友のN 氏からメールをもらったので紹介しておきたいと思う。
=== 2003年の夏、世界で佐渡さんほど音楽を通じて老若男女を感動させた指揮者
はいないと確信します。YPCであんなに多くの親子を感動させ、河口湖、岩国では泣
かせ、京響ではダメ押しの熱いベートーヴェンで熱狂させるパワー、そして疲れをみせ
ず兵庫の未来を考え語りつつ、『ローエングリン』を勉強しながらゴルフに行きまくる
なんて! 佐渡さんは神様付きなのは知っているんですが、きっとその神様も感心しま
くりのパワーで乗りきった夏だったように近くから見ていて感じました。加えて、この
夏世界で一番しゃべった指揮者、世界で一番サインをした指揮者、世界で一番こどもた
ちと握手し、影響を与えた指揮者であることも間違いないです(うちの子もそのひとり
でした)。あと1回、岡山でのコンサートがあることを承知していますが、ちょっと早
いですが、2003の夏、お疲れ様でした&大成功の数々おめでとうございます! と心
から申し上げたいと思います。===
このメールには、この夏の出来事のほとんどが書いてある。面白いのは、「一番しゃ
べった指揮者」と言うくだりで、確かに最後の京都市交響楽団とのベートーヴェンの7
番だけが、何も語りの無い普通のコンサートだった(笑)。
河口湖と岩国はシエナとの演奏旅行。山梨の河口湖町で開催する「富士山河口湖音楽
祭」は僕が監修を務めさせてもらって2年目になる小さな音楽祭。だけれど、物凄い期
待で膨らんでいる。3000人も入る野外音楽堂「河口湖ステラシアター」が今年は一杯に
なった。演奏会を支えてくれているのは地元のボランティア。シエナと僕も演奏会をす
るだけでなく、クリニックをやったり、公開リハーサルをやったり、指揮講習会に、地
元の学校での音楽の授業と大忙し。
だけど本当に充実した時間を持たせてもらっている。今年は地元の中学生の特別編成
バンドも僕が指揮をした。これがまたいいんだなぁ〜。練習をするうちに、どんどん音
が変わっていく。自分が音楽にのめりこんでいった、懐かしい瞬間に立ち会っているよ
うな気がした。夏休みなのに一生懸命指導してくださった薬袋(みない)先生ありがと
うございました! そして、指揮クリニックで素晴らしい演奏をしてくださった富士五
湖ウィンドオーケストラの皆さんありがとう。町長から中学生まで、みんなで一緒に作
った音楽祭。そのうち町の文化祭のようになったらいいのになぁと思っている。
山口県の岩国市では3年間続いている「岩国ヤング・ミュージック・フェスタ」を今
年も開催した。こちらもクリニックと演奏会を中心だが、もう一つの目玉は、僕自身が
身銭を切って行う1泊2日の小学生のキャンプ。僕自身、子供のときに行ったキャンプ
の楽しさが忘れられない。ここでは教育主事の木村先生が大活躍。この音楽祭の拠点で
ある「シンフォニア岩国」の館長をはじめ、全スタッフの愛情一杯の1週間だった。
岩国でのアンコールとしての曲目に、彼らのために大好きなワーグナー作曲「エルザ
の大聖堂への行列」を演奏することにした。今思い出すとおかしかったのだが、東京で
ツアーの前に一度練習をしたのだけど、彼らとの別れがあまりにも辛くてぜんぜん上手
く行かなかった。僕も頭の中が彼らのことで一杯になり、練習は一度通して終わり。上
手く行かないのは当たり前、みんな急な話で戸惑っていた...。
そして夏のツアー最終日、彼らとの最後の演奏会が岩国だった。普段は離れていく団
員を舞台で紹介したりなどしないのだけど、彼らはこの岩国のキャンプで多くの学生達
を指導してくれていた。これは特別と僕は判断し(何しろ、彼らに教わった学生はすで
に何十人も客席にいるのだから)、僕はお客さんに「エルザを演奏しますが、離れてい
く二人のために心を込めて演奏したいと思います」といった短いスピーチをした。シエ
ナのメンバーたちとは、「絶対、泣かないで良い演奏をして彼らを送ろうな!」と演奏
会の前に誓い合っていた。
が...、実際の演奏はみんな舞台上で大泣き、僕も必死に涙をこらえたが、どうに
もこうにも悲しくて、だけど、その悲しさと音が一体になって、指揮をしていると言う
より、ただ「想いを伝えている」だけになった。しかし、こんなにも楽器と言うものは、
それぞれの想いを音楽で伝えられるのだと改めて教えられた気がする。
木管楽器の一人一人が、まるで手紙を読むように一つ一つの音を届け、バスはしっか
りとした足取りを作り、ブラスの連中らは目を真っ赤にして、本当に全員で「彼らに幸
あれ」と祈りを込めた。みんなで最高の音で彼らを見送った。やっぱりシエナは素晴ら
しい。「プロが舞台で泣く?」格好悪いように思う人もいるだろけど、だからシエナな
んだなぁ。まあ、あの演奏を聴いていない人には上手く伝わらない話かもしれないが。
演奏した僕達にしかわからない伝説の演奏になったと思う。誰かテープ録ってないか
なぁ?
実は、兵庫県の音楽監督としての仕事もこうしたスケジュールの合間に一杯やった。
関西にいる時はもちろん、東京でも演奏会の合間を縫って会議はひっきりなしに行った。
また、僕の監修で始まった「歌って踊ろうヘンゼルとグレーテル」がこの夏始まった。
2005年の開館のクリスマスに本公演が行われるのだけど、それに向けての予習も兼
ねて、多いにオペラを身近に楽しんでもらおうという企画。まだまだ公演は続くので、
ぜひ見に行って頂けたらと思う。
もう一つは「スーパーキッズ・オーケストラ」。これは11月に公演を行うのだが、そ
の最初の合宿を神戸の六甲山で行った。今までの僕は、音楽が得意であろうが無かろう
が、誰でも音楽は楽しめるものだと言ってきた。もちろんそれが大前提なのだが、同時
に本当に音楽が大好きで、才能があり、勇気のある子供を、オーディションという形で
選抜し、オーケストラを作りたいと常々思っていた。
彼らが、僕やコンセール・ラムルー管弦楽団の連中と一緒に生活をして、音を作って
いくということをぜひ行ってみたかったのだ。オーディションや試験はどうしても落っ
こちた時のことを考える。しかし、子供を傷つけないというのは、オーディションで落
とさないことだろうか? この音楽好きの子供にとっては夢のような企画、落っこちた
って「また来年頑張って受けに来い!!」と僕は言いたい。だって、オーディションは
夢を叶えてくれる扉でしょう? 世界にはそんな扉が一杯ある。僕も一杯落ちて落ちて.
..、そしていくつか夢を勝ち取った。オーディションに受かった彼らは、今も練習を
続けて11月に素晴らしい演奏会を行うという、大事な目標ですでに頭が一杯になってい
る。きっときっと素晴らしい企画になると思う。
ふーっ! 長い佐渡日記になった。この間、さっきのN氏のメッセージにもあったけれ
ど、合間にゴルフをし、今ボルドーでやっているワーグナーの歌劇『ローエングリン』
の勉強もしていた。他にも取材があり、パーティがありetc、etc.....指揮者の才
能? それは、間違いなく“体力と根気”です。
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京響のソリストダニエル・ミュラーと2ショット
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忙しい合間にしっかりラーメンも食べました
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しっとこ出演前にヘアメイク中
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FIFAコンサートのソリストたちと
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● 2003年7月 バイエルン放送交響楽団定期演奏会編
親愛なる「レニー 〜 バーンスタインへ」
今、ミュンヘンの「ガスタイク」、この素晴らしいホールであなたがずっと振りつづ
けていたオーケストラ、バイエルン放送交響楽団の定期公演を終えホテルに着いたばか
りです。僕にとって、このオーケストラへのデビューです。レニーは今日のコンサート
に来てくれましたね!(招待状も出してないのに...<笑>)
しかも、僕がタングルウッドやPMF、あるいはシュレスビッヒ=ホルシュタイン音
楽祭でレニーの前で指揮をした時のように、オーケストラの木管楽器の段に隠れて座っ
て、ずっと厳しくも優しい顔で見つめてくれていました。時には僕と一緒に指揮台に上
がってきたし、そして、誰よりも大きな拍手と「ブラヴォー!!」という声を最初にかけ
てくれました。僕が客席に振り向いたとき、愛妻の公子の横にレニーも座っていた。
舞台から客席にあっという間に移れるのは、やはりレニーはこの世の人ではない離れ業
のお陰でしょうか? でも、間違いなく僕はレニーの顔を見た。これは確かです。
そう言えば、おかしな事が一杯あったのです。僕は「ミュンヘンに知り合いなぞいな
い」とずっと思っていました。だから、この名門オーケストラを指揮するというのは、
僕にとって物凄いプレッシャーだったのです。このオケは、10年ほど前にPMFに来
ました。正直、その時このオーケストラの印象は、「名門オケとは、こんなにも難しい
ものなんだな」というものでした。だって、毎日のように、指揮者と、あるいは主催者
ともめていましたから...。
僕は、まだアシスタントだったから、あまり詳しいことはわかりませんでしたが、
それでも、はっきりと重い重い空気を感じていました。でも、わずか数分ですが、この
オケの唯一の日本人奏者、ヴァイオリニストの水島さんと、休憩時間にお話できたとい
うことが僕にとって唯一の素敵な思い出でした。実は、朝日新聞の記者の方から、今年
の春、バイエルン放送交響楽団が日本公演を行った際、「水島さんが、僕が来るのをと
ても楽しみにしてらっしゃる」というお手紙を頂いていたのです。だけど、わずか数分
間、しかも10年も前の話ですから、水島さんのメールアドレスを教えてもらいながら
も、やはり遠慮していたんです。
それがどうでしょう! 本当に、今でも、その時のことを水島さんはよく覚えてくだ
さっていて、指揮者にとっては宿命の「孤独感」から、彼女のお陰で僕は瞬時に解放さ
れたのです。そのお陰で、本当にいい練習ができたと思います。更に信じられないけれ
ど、お昼御飯には、なんと明太子入りのおにぎりまで水島さんは作ってくださったんで
すよ。
すでに、数十年、このドイツに住まれている日本人が、今もまさに「ヤマトナデシ
コ」精神で、ドイツの名門オケで頑張ってらっしゃるということに僕は大変感動しまし
たし、僕だけでなく、若い日本人の学生さんたちのことも、本当に熱心に親切に応援さ
れているのです。もちろん、本人が苦労されたからこそ、若い学生達を応援したいとい
う気持ちになられるのでしょう。その若い音楽家たちというのが、それこそ、PMFの
卒業生達なのです! たまたまこの時日本から水島さんを訪ねてミュンヘンに来た人、
もう何年もこのミュンヘンで頑張っている人、あるいはシュトゥットガルトから駆けつ
けた懐かしいPMFのメンバー達。
そうそう、このオケのフルート奏者は、僕が昔オーディションで選んだスペイン人の
PMFの卒業生でした。そして、ファゴットを吹いていたのは、やはり日本人のPMF
の卒業生です。本当に不思議だけど、僕の知っている人が大集合だったのです!
それにまた、面白いのは、僕の兄貴の家の向かいに住んでいた娘さんで、僕の堀川の
後輩でもあるフルートの広岡さんも楽屋に来てくれたし、彼女の先生でミ?ヘン・フィ
ルの首席奏者ミヒャエル・コフラーは、1998年に京都市交響楽団の定期演奏会で一緒
に共演をした仲でした。ミヒャエルと僕の最初の出会いは、レニー、あなたが僕をウィ
ーン・フィルのフルート首席奏者ヴォルフガング・シュルツの家でのパーティに連れて
行ってくれたときのことでした。
レニー、あなたはどこまで素敵なのでしょう! これは、少し皮肉もこもっているの
です(笑)。
今日演奏会に行くとき、会場に行くために迎えに来たタクシーのエンジンが突然かか
らなくなったり(お陰で、別のタクシーに乗り換えましたよ。ベンツでもそんな事があ
るのですね)、公子の大好きな演奏会用のバッグの取っ手が本番前に折れたこと、武満
さんの『レクイエム』(武満さんとも、PMFで出会いましたが)で、物凄く緊張して
いたこと、メンデルスゾーンで一箇所だけ大きくずれたこと、全てあなたのお得意の悪
戯だったのではないかと思っています。
でしょう? 正直に言いなさい! そうでなければ、あんなにも『カディッシュ』が
成功を収めるはずがない! あなた自身の曲だからよくわかるでしょうが、最後の音を
振り終えた瞬間、あんなにも複雑な曲で(ごめんね)、普段静かなドイツ人の聴衆がブ
ラヴォーの嵐ですよ! 何人もの人が立って拍手を贈ってくれました。
本当にありがとう、レニー! 全ての出会いが、あなたに繋がっている。
あなたが亡くなる前、ずっと何度も「お前は何でもできる!」そう言い続けてくれて
いましたね。僕にはまったく自信がなかったし、その時は残念ながら聞き流していまし
た。だけど今日、自分にも少しの自信がついたかもしれません...。ありがとう、本
当に今更なんですけど、あなたの教えに心から感謝しています。そして、あなたが残し
てくれたPMFの意味が、今まさに花を咲かそうとしていると、長年PMFに関わって
いる僕としては嬉しい実感でした。
レニー、また悪戯をしたくなったら、いつでも演奏会に来てください。でもできるこ
となら、事前に何枚の招待券が必要か、おっしゃってくれると助かります。もしかした
ら、このドイツでも、なかなか招待券を確保する事が、そのうち難しくなるかもしれま
せんから!
※PMF
「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」のこと。1990年にバーンスタイ
ンの提唱で開始されたプロフェッショナル演奏家を目指す若者を対象にした教育音楽祭。
1990年の第1回PMFでは、無くなる直前のバーンスタインが瀕死の病をおして参加
し、指導を行った。「タングルウッド」はアメリカ・ボストン郊外で、「シュレスビッ
ヒ=ホルシュタイン音楽祭」はドイツのシュレスビッヒ=ホルシュタイン州で行われる
教育音楽祭のこと。やはり、バーンスタインが大きく関わっており、佐渡裕も生徒とし
て参加している。
※『カディッシュ』
今回の演奏会で取り上げた、バーンスタイン作曲の交響曲第3番『カディッシュ』の
こと。ヨーロッパの宗教観に基づくヘブライ語のテキストを交えた宗教的色彩の濃い曲
目。
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