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NO.44 2003年3月 フランス国立管編
03/05/19
フィレンツェからパリに戻った次の日、僕はフランス国立管弦楽団の指揮台に立った。
1曲目はブゾーニ、2曲目にはギリシャ人の新人ヴァイオリニスト、カヴァコスを
ソリストにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
1部のプログラムは変わったけれど、2部の曲はフィレンツェと同じシューマンの
2番を指揮した。
同じ曲を違うオーケストラで指揮するというのは、そのオケの能力がはっきりと分かって
とても面白い。それぞれの楽器に僕自身の好みで好き嫌いもあるが、オーケストラ全体の
レベル、仕事場としての価値観、そして、聴衆とどう作っていくか、つまり街にとっての
オーケストラの役目という社会的な意味合いなども含めて考えると、二つのオケを比べるのは
とても面白い。
結果から言えばフランス国立管は明らかにフィレンツェよりもレベルの高いオーケストラで
あると認識できた。一人一人の技術の高さ、モチベーションの高さ、スタッフの接し方、
どれをとってもこのオケは優れていた。何よりも、熱狂的な聴衆の暖かい拍手がいつまでも
終わらなかったのは嬉しいことに地元パリだった。
そうそう、このコンサートでも、そして古巣ボルドーでも、このHPの管理人を務めてくれて
いる、吉村純の写真が大きくポスターに使われた。2メートルぐらいあるんじゃないかという
ほどの僕の大きな指揮姿がシャンゼリゼ劇場の入り口に張り出された。嬉しいやら恥ずかしい
やら。
吉村は僕のファンの一人だ。数年前に東京荒川で振った日本フィルとの第九を聴いた後、
金沢にいた僕を突然訪ねて来た。その頃まだまだ呑気だった僕は、ホテルに訪ねてきた彼に
「一緒に朝飯でも食べよか?」と金沢の都ホテルのレストランで対面した。「演奏会、感動
しました。佐渡さんのために何かさせてください!」あまりにも直球の交渉。「まあ、何でも
したら」いい加減な答えにもかかわらず、それからいつの間にか僕の写真を彼が撮り続けて
くれている。
彼も同行した日本フィルとの東北への演奏旅行。そこにはパンツ一丁で勉強している僕の
写真もあれば、京大の合宿で学生たちとはしゃいでいるもの、『キャンディード』の練習で
歌手とわいわいやっている写真。オケのメンバーと行った、美味いうどん屋、ラーメン屋、
焼肉屋での最高の笑顔。パリ管のデビュー時の写真等、貴重な写真で一杯だ。
中でも最も貴重なのが、1999年の7月、結婚をして、かみさんにどうしても朝比奈隆の
美しい指揮姿を見せたくて、サントリーホールの演奏会に行き、感動して先生の楽屋に伺った
とき、朝比奈先生の前でボロボロ泣いてる写真だ。1万枚に1枚の奇跡を生む写真家(笑)
吉村純。いつか「佐渡裕写真展」が開かれたらいいなと思う。
話は戻って、フランス国立管のコンサートマスターは、昨年新しく就任したサラ。
若干21歳の女の子だ。しかし、なんと堂々とした仕事振りだろう。この歳で彼女を入れた
オーケストラの判断にも脱帽。実は僕は彼女がまだ10歳のときに会っている。と言うのも、
彼女のお父さんは今も現役でボルドーのコンサートマスターを勤めており、10数年前、
彼女らの家に遊びに寄せてもらったことがあった。僕は忘れていたけど、「あの時ユタカがね、
家の椅子を壊しちゃったのよ!」と10歳の時とまったく変わらない笑顔で、サラは嬉しそうに
話してくれた。今回の演奏会にはお父さんのヴラジミールもボルドーから駆けつけ、楽屋で
みんなでの再会を喜んだ。
NO.43 フィレンツェ後編 03/04/11
フィレンツェでのコンサートは成功に終わった。フランスもそうだけれど、ラテン系の
オーケストラの本番での集中力はすごいものがある。「本番で一丁やってやろう!」って
感じがオケからじんじん沸いてくる。これを上手く操れると、ラテン系のオケを指揮する
ことはとても面白い。だけど、いつもいつも、100人にもなる集団をそう上手く操れる
ものではないというのが指揮者の悩みであり、オケの不思議さなのだ。シューマンの2番の
交響曲をメインに、前半はドボルザークのチェロ協奏曲とキャンディードの序曲を演奏した。
ソロのマリオ・ブルネロはじっくりしっとりと弾くタイプ。久しぶりにゆったりとした
テンポのドボルザークをやった。
演奏会には稲葉さん夫妻はもちろん、意外なお客様が来てくれた。一人は日本で僕の
マネージャーをしている本庄朝子嬢。仕事ではなく、まったくのホリデイで来てくれた。
ヨーロッパのオケを振っている僕を見るのは初めてなので、あんなにたくさんの外人の中で、
僕が頑張っている姿を彼女に見せることができてよかった。
また、前にローマで一緒に共演したピアニストのアレクサンダー・トラッツェ氏が来て
くれた。彼は素晴らしいピアニスト。そして素晴らしい人間。演奏家としてとてつもない
スケジュールをこなし、そして大きな愛情を持って自分の生徒たちを精力的に教えている。
生徒といってもすでにいくつものコンクールに入賞し、いろんなところでオーケストラと
共演をしている連中たちだ。彼はなんとも豪快な人で、今回もヴェネチアから僕のコンサート
のために、彼の生徒たち5人、おじさんとそのお友達、そしてマネージャーと、団体さんで
駆けつけてくれた。
彼と生徒さん達は、アメリカからイタリアにやってきて、ピアノのソロだけで4時間ほど
かかる「マラソンコンサート」を行っており、今回も僕のために楽屋でわざわざその一部を
披露してくれた。それぞれのピアニストのレベルは非常に高く、全員が入れ代わり立ち代りで
プロコフィエフのソナタを1時間ほど弾いてくれたのだけど、一人の作曲家のいろんな面が
見えて本当に素晴らしい時間だった。
僕の演奏会の後は、みんなで食事!結局は食べ物の話で終わり。フィレンツェ御馳走様でした。
NO.42 フィレンツェ前編 03/04/11
パリでラムルー管の定期を終えた後、久しぶりにフィレンツェに来た。
前回は観光客として、今回は指揮者としてやってきた。ミラノにもローマにもない、
この街だけが持つ特有の雰囲気が心地よい。
フィレンツェには僕の本『僕はいかにして指揮者になったか』の最初の編集者である
稲葉さんが住んでいる。僕の本を出した後、突然イタリア人と結婚をした。それは僕の本の
制作という一仕事を終え、イタリア旅行に出かけたのがきっかけらしい。あるレスランで、
かわいいウェイターを見つけて、彼目当てで通い詰めたそうだが、その彼ではなく別の
イタリア人と結婚したそうな。
今は3歳のかわいい息子さんもできて、イタリア人のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に、
温かい家族に守られてとても幸せそうな彼女に再会できた。
彼女はかなり面白い、というか不思議な人。大笑いできる彼女のネタは数々あるが、
フィレンツェのご主人のレストランでたらふく食べさせてもらい、しっかり口止めされている
からここでは伏せておくことにして、ある時ポロッと彼女が呟いた言葉を紹介したい。
「私って、鈍感なんですよね・・・」。彼女が幸せをつかんだのは、実はこのある程度「鈍感」
だからじゃないかって僕は思う。最近多くの人間が敏感すぎる。道徳について、おしゃれについて、
人の噂に、そして自分自身に関しても…だから、すぐに傷つき、すぐに落ち込む。僕は彼女が
決して鈍感だとは思わないけど、自分のペースでゆっくりと生きるって大事だなぁと思った。
フィレンツェのオーケストラの楽屋には、クライバーにアバド、小澤先生にメータにジュリーニと
数々の名指揮者のサインが飾ってあった。そんな指揮台に上がれるのだから大変名誉なこと。
練習も好調だったのだけど、そんな中戦争が始まった。オーケストラのメンバーも戦争反対デモ
参加のために練習が短く制限される。しかし不思議なことに、街は多くのアメリカ人観光客で
溢れている。
さて明日が本番初日。僕も「Pace」と書かれた虹色の旗をつけて舞台に上がるつもりだ。
NO.41 ボルドー完結編 03/03/20
ボルドーでの『バタフライ』は大成功に終わった。何しろ10回の本番があっという間に
完売した。この決して大きくない街で、他のコンサートやバレー、オペレッタもある中での
完売には少々驚いた。
心配していた二人目のバタフライも、何とか歌いこなして(とはいってもしょっちゅう
落っこちる・・・つまり歌わなければいけないところで、出ないということね)ホッとした。
でも、つくづく僕は雑草だと実感した。だって、そんな本番は今まで山ほどやってきたから、
「何でもおいで〜!」とドンと構えられる。いろいろ経験済みの雑草は気が長い。とにかく、
バタフライは大成功に終わった。
オペラが終わったすぐあと、そのままボルドーでコンサート。ルロイ・アンダーソンの名曲を
数曲と、カルメン組曲にウェストサイドストーリー。へへへ、得意中の得意ですな。
アンダーソンの曲でタイプライターをソロにしたのがあるのだけど、このタイプライターは
普通パーカッション奏者が演奏する。今回もミッシェルという打楽器奏者が叩いたのだけれど、
これは打楽器奏者という域を完全に超え、本当のコメディアン。音楽だけでも面白い曲なのだけど、
しぐさ、メイクと、凝りに凝っていて会場は大爆笑となった。とにかく面白いコンサートで、
子供たちはフリー、大人もとても安い値段で来れコンサートで、兵庫の新しいホールでも是非
やらなければいけない内容だ。
終演後、オケのメンバーの多くが楽屋にやってきてくれた。何週間も一緒にいられたことの
喜び、一緒にいい物を創れた嬉しさ、みんな僕を喜ばせてくれる。ボルドーには夏までにまた
2回定期で戻ってくる。その時までみんな元気でね!
NO.40 ボルドーオペラ「蝶々夫人」編 03/02/14
前回に引き続きボルドーからの日記。今僕がこのボルドーで取り組んでいる、プッチーニ作曲
「蝶々夫人」というオペラは、僕が人生で最初に取り組んだオペラ作品と言うことが出来る。
忘れもしない、まだ僕が二十歳の時。演奏団体は大阪にあるオペラ団体関西二期会だった。
非常にお世話になった指揮者岡田司氏の推薦で、ここの副指揮者になりたてだった僕は、学校の
学園祭でミュージカルなどを指揮したことはあったものの、プッチーニのオペラなんぞ振った
こともなく、その膨大な音の量にひどく戸惑い、そして同時に面白さに夢中になった。
プロとしての仕事をもらった以上、とにかく練習場に足を運び、指揮をすると言うより、練習場の
準備と後片付け、使い走りから、歌手の愚痴を聞くことまで、全て引き受けるというのが僕に
できる最大の仕事だった。
まあ、まだ学生だったから、それほど真剣にこれを一生の仕事にしていこうという気もさ
ほどなく、ただただプロの集団の中で自分の居場所があることが嬉しかった。そうした中で、
僕に非常に大きな影響を与えてくださったのは、栗山昌良先生という演出家だった。今70歳を
越えられた先生は、随分と御優しくなられたそうだが、その頃の先生の稽古は、あまりの厳しさに
歌手が涙を流すこともしばしばだった。だけど、先生から発せられる全ての厳しい言葉は、楽譜が
先生にそうしゃべらせているように僕には聞こえ、一言一言が楽譜を読む上での大きな喜びに
繋がっていった。どうして三連譜なのか、どうして大きな休みがあるのか、なぜ歌手はこの
アリアを歌うのか、僕はオペラの面白さを、全てこの栗山先生から学んだといっていい。
関西二期会に僕がいた6年間、3人の指揮者の副指揮をし、ブザンソン国際指揮者コンクールに
優勝した直後、本指揮者としても栗山先生の演出で指揮台に上がらせてもらえることができた。
だから、ボルドーでこの作品に向かっていても、全ての小節にいろいろな思い出が残っている。
ボンゾが登場する時に舞台裏で叩く銅鑼、港からピンカートンの帰国を告げる大砲の音
(大太鼓を叩く)、間奏曲の鳥の声(水笛)、脇役のはずの音にまで、僕の思いは一杯ある。
話はボルドーに戻って、明日最後のゲネラル・プローヴェ(GP)、本番と同様に行われる
最後の練習日を迎えることになった。こちらの練習は、基本的に4週間ほど完全に日程を
抑えられる。大体一日6時間の練習時間で、2時から7時までと、8時から11時までの2コマが
あてられ、日曜日だけはオフとなる。最後の1週間は練習にオーケストラも加わり、オケと歌手
だけの音楽練習、オケを使っての舞台稽古2日間、そしてピアノでのGP。オケと行うプレGP。
そして最後に公開でGPが行われるという、なんとも贅沢な練習の組みよう! もちろん、
兵庫で僕がオペラを作るときは、このシステム以外は考えられないけれど、学校の先生なども
兼ねている歌手の場合、約6週間、全くこれ以外の仕事をせず、作品作りにかけられる人が
どれだけいるものか考える必要があるだろう。
これだけを書くと、なんと素晴らしい環境で練習が行われているのだと思われるだろうが、
実際はとにかく仕事が遅い。たった1シーンに3時間をかけることはざらで、何度も何度もその
場所を繰り返す。歌手の覚え違いを訂正すること数100回。どこか創造的な活動とはかけ離れた
作業に疲れも増す。演出家の音楽的な理解のなさにも頭を悩ませ、チームワークも大事にし、
言うべきことは伝え、励ますこともし、極力愚痴はこぼさず、ある種、単調な毎日を過ごす。
普段のオーケストラ公演の際に、たったの3日間で仕上げるのとは時間の流れが全く違うし、
同じ場所に6週間もいられるのだから、僕にとってはとてもリラックス出来ていいのではあるけど、
それはそれでストレスも大きい。
今回は前回にも書いた「グリーンハウス」での滞在で、同じこのアパートにキュウという
韓国出身の歌手が同居している。彼はヤマドリという役でわずか5分の出演なのだが、彼の
ベースであるサンフランシスコからヨーロッパでのキャリアをつむためにこの仕事を引き受けた。
この公演後もヨーロッパに数週間残り、各地をオーディションで点々とする。わずかの出演でも、
その声の良さはすぐに僕に強烈な印象を与えた。
またこいつ、めちゃくちゃ面白いやつで、今はお昼ご飯も、晩御飯も、僕と常にいっしょに
行動し、まるで実の僕の弟みたいになった。昨夜、彼の奥さんがソウルから到着。
うちのかみさんと4人での生活が始まった。彼の得意料理は、最高に美味かったのがやはりカルビ。
それにチヂミという、韓国風お好み焼き。公子はおでんに、シチュー、もちろん僕が絶対必要な
味噌汁を作ってくれ、僕は時々カレーやスパゲッティーを作った。だけど、いつも白いご飯を共に
食べるところは、なんともアジア人の心を感じる。意外にすごく簡単で、物凄く美味しかったのは、
白いご飯に胡麻油をかけ、コチジャンを少し混ぜて、キムチなり日本の漬物なり、何かご飯の
あてで簡単に食事を済ますのは一番食が進む。とにかく、とても健康的で、食後はあちらの方も
スッキリ。
一方、オーケストラは大健闘。僕のヨーロッパでの最初のオケという事で、かれこれ13年の
付き合いになるボルドー・アキテーヌ管は、僕の欲望も、いたずら心も、時にはやる気の
なさまでも、簡単に読み取ってしまう。しかし、本当にいい意味で見事に僕の作りたいもの
を実現してくれている。
舞台の演出に関しては、あまり触れたくはない。すごく綺麗なシーンも一杯あるし、やはり、
事前から想像していたとおり、中国と韓国と日本、あるいはその他のアジアの国をごちゃ混ぜに
した舞台になっている。特にメイキャップはひどいもんで、着物の着方は言うに及ばず、彼ら
ヨーロッパ人にとってのアジアというのはこういった物か! と改めて感じさせられている。
さて、最大の問題が一つある。実は主役のバタフライがダブルキャストなのだが、一人は
ずっといっしょに練習をしていた中国人の26歳のフイ。強烈な程強い声の持ち主で、まあ
いろいろ癖はあるにせよ、音楽的には圧巻で、もう本番に行けるとこまで来た。問題はもう一人。
何しろ到着したのが、彼女が歌う本番の日の1週間前、実はまだ僕は彼女の声を聴いていない。
もちろん毎日僕のアシスタントと猛練習を行っているのだが、さてどうなることやら...。
初日の幕は明後日、一日オフを挟んで、14日に幕を開ける。楽しみでもあり、ちょっぴり
不安もあり。とにかく、僕は栗山演出が懐かしい。あの演出で、御芝居と音楽が一体になった
本当の日本を舞台にした蝶々さんをやりたいなぁ。
NO.39 パリ-ボルドー編 03/02/04
1月に入ってパリに戻った。友人の金聖響をラムルー管に迎え、彼は僕のアパートに
1週間ほど滞在した。思えばここには、ラッパの原朋直さんや、ドラムの則竹裕之さんと、
いろんな人が泊まっていった。旅行が多い僕の生活だから、いつかパリに家を買ったら
下宿屋をしたいと思っている。いろんなジャンル、例えばサッカーの選手の卵とか、
お医者さん、ヘアーデザイナーやら、まだ何になるか決めてないやつまで、みんなで
一緒に住めたらいいなぁと思っている。
今回、聖響と久しぶりにゆっくりと話すことができた。ずっと前から彼には海外に
出るようにと薦めていたので、それが実現し、実際にオケを振って、彼もその意味を
実感してくれたからとても嬉しかった。「何で、こんなに楽しんでしょう?」いつも
品のない関西弁でまくし立てる彼も、僕に対してはとても上品(爆!)そう、音楽が
うまく行くとき、本当にこちらのオケ、特にラムルーは楽しさが最大の魅力だ!
いや、そうなるよう僕とオケが作ってきたんだぞ〜! 僕はあまり練習に顔を出しても
彼にプレッシャーを与えるかと遠慮していたけど、ゲネプロを聴いた限りではとっても
いい演奏。
アメリカ育ちの彼得意の英語がオケに通じず、と言うより少々早口で話しすぎるから、
もう少し重心を下げ、人の眉間に言葉を投げつける術を得たらもっと良くなるだろうなぁ。
でもあいつの指揮は良かった。オケからいい音を出していた。まあ、直接は何も言うまい。
きっと本人もそれぐらいのことは感じているからね。演奏会も大成功だったようで、オケの
事務局長からはさっそく電話がかかってきた。次の仕事も決めたいということで、これは
僕の力でも、事務所の力でもなく、自分で勝ち取ったお仕事!聖響、本当におめでとう!!
僕はというと、聖響の本番を聞きたかったのだけど、自分で車を運転して、パリから南に
600キロ、古巣ボルドーへと向かった。次の日から今年のオペラ一作目「バタフライ」の
稽古の始まりだ。ゴルフ道具一式に、炊飯器、ホットプレート、日本食材、漫画「三国志」
30巻、テレビにビデオ、DVDにCD、まあ引越しか夜逃げ状態で車の中一杯に荷物を
詰め込んで、1ヵ月半のボルドー滞在に備えた。南極にでも行く勢いだった。聖響の練習を
聞いていて、ばたばたと出発したものだから、こちらのスケジュール表を家にわすれたことに
途中気がついた。まあ、何とかなるわいと車を5時間ほど走らせたのだけど、ずっと公子と
「しりとり」をして遊んでいた。しりとりって、大人になってやってみると、なかなか終わら
ないものね…。
さてクタクタで着いたボルドー、アパートのベルを鳴らしても誰も出てこない。 劇場に
行っても誰もいないし...、日曜日だもんね。近くのホテルで劇場の情報を手に入れようと
するが成功せず、結局アパートの前、雨の中ボ〜ッと途方にくれる。それはこんな思い込み
から始った悲劇だった。僕がボルドーで長期滞在するところは、グリーンハウスという
アパート型のホテル。もちろん名前どおり入り口のドアがグリーンで、とても綺麗なところなの
だけど、同じ道にもう一つグリーンのドアがあることが分かった。そうとは気付かず、ずっと
1時間ほどよそ様のグリーンのドアベルを鳴らしつづけていたことになる。ほっ...、
どっと疲れて、やっとのこと中に入る。さていよいよ明日から、「バタフライ」の練習開始。
でも、1ヵ月半も同じ場所にいられるのは嬉しい。とりあえず、楽譜を読みつつ、三国志の
漫画を一冊読んだ。
NO.38 2002年を振り返って、そして2003年へ。 03/01/16
2002年を振り返って、自分にとって一番大きな出来事は、やはり兵庫県の芸術監督に
就任したことだ。2005年にオープンするホールのあり方を考え、オーケストラの構想、
ボランティアの考え方などを練り、スタッフとの結束を誓いあった。表向きには大きな
活動はしなかったが、しっかりと足元を固める大事な一年だった。公共のホールが本当に
実感として住む人達の物になるよう、相方、井戸兵庫県知事と堅く手を組んで、今年も
少しずつ大きな夢に向かい進みたいと思う。
兵庫関係では、今年の夏にはちょっとしたイベントを行う予定。ホールのオープンに
行うオペラ「ヘンゼルとグレーテル」の予告編。それに向けてまずテントを買った。
テントの中では、オペラの衣装やかつらの展示、楽器の試奏、指揮者コーナーなど、
今までのヤング・ピープルズ・コンサートで行ってきたことの集大成みたいなものを
やってみようと思っている。隣接するホールでは、オペラのあらすじや、本番の舞台でも
演奏される歌の歌詞や、振り付けなどをみんなに覚えてもらえるようにしようと思っている。
うまくいけば、シエナでやっている「星条旗」のオペラ版が実現するのではないだろうか。
もうひとつは全国でオーディションを行い、15歳までの優秀な子供たちを集め、海外からの
トップ奏者の指導と僕の指揮のもと、子供たちのオーケストラを作ってみようと思う。
8月から数日間の合宿を行い、9月、10月と土曜、日曜を利用して練習を続け、11月には
僕の指揮で数日間の公演を行う予定。もちろん、音楽的に才能に溢れた子供たちを集めるのだが、
合宿の時から、ともに生活をすることを通して、挨拶の大事さを教え、音楽ができる喜びを伝え、
世界のすばらしい音楽家が何を考えているのかということを伝えていこうという企画。
親の言うとおり、あるいは先生の言うとおりにしか音楽をやっていない子供たちが、自分の
目と心で、音に向かう瞬間を作りたいと思う。
どちらの企画もお金がかかる。もしこの日記を読んでくださり、資金援助をしてくださると
いう方がいらっしゃるのであれば大変ありがたい。こういうスポンサーを得ることも、
これからの大きな課題になるだろう。ドンと大金を出してくださる企業はもちろん、奏者一人に
対する金額的には小さなスポンサーまで大募集したいと思う。
例えば、新潟在住の子供が1人参加することになるとしたら、その子の交通費、宿泊費
だけでもサポートしていただければそれだけでも大いに助かるのだ。プログラムのメンバー
紹介には、一人づつにカッコ書きでスポンサー名(あるいは匿名もあり得る)を入れる。
これなら個人でも十分参加して頂けるスポンサーになるのではないだろうか。
2002年の僕の日本での活動は、シエナ・ウィンド・オーケストラとの数々の出来事抜き
では語れない。彼らとの2枚目になるCDの発売。河口湖での音楽祭の成功。昨年に続き、
岩国市で行ったミュージックキャンプの充実。そして、シエナの首席指揮者に僕が就任した
ことなどなど。これからも益々彼らといい音を創り、人の心を動かしていきたい。
また、ここ4年間続けてきた「ヤング・ピープルズ・コンサート」「一万人の第九」が
さらに大きな形になってきたと思う。4年間継続するということの意味と大切さを改めて
実感したと言える。そしてそういうことの積み重ねから、10年近く年末に行ってきた、
大阪のザ・シンフォニーホールでの「21世紀の第九」でのお客さんの盛況となり、異様な
期待感に包まれた超満員の会場が、演奏者も聴衆も一体となり、奇跡の演奏を生んだと
言えよう。この演奏体験は僕にとって初めての経験。まるで自分がそこに存在しないかの
ような、ただただ、そこに僕がいる事がありがたいと感じる指揮体験だった。
ヨーロッパでの活動の収穫は、イタリアでの多くの公演を実現したこと。 ローマ・
サンタ・チェチーリア音楽院管との継続的な指揮活動、トリノRAI管の3週連続定期公演へ
の出演など、いよいよイタリアにも自分の居場所ができつつある。ドイツもそう、
ハンブルグ・オペラのオーケストラとの忘れられない演奏会を11月に行い、さっそく
次の公演の打診をもらっているし、今年はバンベルグ響やバイエルン響へもデビューが
待っている。フランスはもちろん、いよいよヨーロッパを舞台に、やっと自分がお客様では
なく、彼らと肩を組んでがっちりと仕事ができる自信がついたと言えるかもしれない。
今年はボルドー・オペラで「マダム・バタフライ」「ローエングリン」を作り、パリ管と
エクサンプロヴァンス音楽祭で「椿姫」を作る。将来的には、イタリアでオペラを行い、
ドイツのオケとシンフォニー・コンサートを作って行きたいと考えている。まるで良い食材を
求めるシェフみたいだけれど、良い音を作りたいという単純な想いが、やはり僕の指揮者
としての一番のエネルギー。
2003年お正月、久しぶりにゆっくりと過ごせた。ゆっくりと過ごすためにゴルフも
2日間に抑えた。その初ラウンド、いきなりの30台! 今年こそシングルを目指す!
欲張りかなぁ。
NO.37 東京都交響楽団との協演編 02/12/27
この12月、定期演奏会と第九のステージで一緒だった東京都交響楽団が僕は好きだ。
若い奏者とベテランが上手く混ざって熱い演奏を繰り広げてくれる。
いいオーケストラとはもちろん本番での演奏能力の高いことをいうのだけれど、この
オケとの練習が僕は好き。振り返れば、スティーヴ・ヴァイと野平さん作曲のエレクトリック・
ギター協奏曲「炎の弦」をこの夏やった時も、あの難曲をここまで熱心に取り組んでくれた
都響がバックでなければ実現しなかっただろう。
とにかく都響には音楽的で健康的な意見を交換できるメンバーが多い。多いという言い方は
一般の方には誤解を招くかもしれないけれど、オーケストラとは社会の縮図みたいなもの。
全てのメンバーが音楽的で健康的ということなど世界中どこのオケを捜してもありえない。
僕が都響に行くのが好きな理由は他にもある。明るい性格の今村楽団参事をはじめ、
全てのスタッフが細かい心遣いを持ってくださっていて素晴らしい。それぞれの仕事の
分担がはっきりとしている一方で、僕が無理をお願いしたような時は、それぞれがそれぞれに
その場で判断を下して臨機応変に対応してくれる。
今回もこんなことがあった。僕の友人、パリに住むチェリスト誠治君(11歳)が一時帰国で
僕と都響の演奏会を訪ねてくれた。僕は彼のチェロを高く評価しているのだけど、せっかく
日本でも会えるのだから、開演前に楽屋で少しレッスンをしようということになった。
本番45分前。僕がちょっと声をかけたら、コンサートマスターの矢部君や、首席チェロ奏者の
古川君らも楽屋に集まってきてくれ、ちょっと豪華な講習会になった。僕も含め、みんなが
最初に指摘したことは、彼の素晴らしい音楽性。そして、それと同時に右手の自由さをもっと
獲得すること。右手が自由になると、もっと音が伸びる。
みんなの意見も聞いた上で、「そうや誠治君、文化会館の舞台に行ってみるか?」突然の
僕の思いつきに矢部君は「行っておいでよ!」もちろん誠治君は「うん!」と大きくうなずいた。
時間は開場時間をちょうど迎えようとしているときだった。会場のドアはもう開かれていたので、
ステージマネージャーの山野さんに、「ちょっと友人に舞台を見せたいんやけど、いいかな?」
と言うと、「今ならまだ大丈夫ですよ!」と気持ちよく言ってくれた。
誠治君は舞台から見た2千を超える客席に「わぁー」と驚いた。「いいか、この客席全部に
誠治君の音を伝えなあかん。今の音やったら、届かんやろ?」僕は5階席まである文化会館の
客席をぐるーっと指差した。小さい声だったけど、深くしっかりと「うん」とうなずいた
誠治君の右手は、きっと大きく変化するに違いないと思った。
練習の前、演奏会の後、都響が用意してくれる車で僕は移動する。運転手さんは石井さん。
彼もこのオケに欠かせない素晴らしいスタッフの一人。いつどんな渋滞が起こるかわからない
東京で、常に先を読み時間どおりに僕を運んでくれるプロの中のプロ。僕はこういう職人技に弱い。
時間どおりということだけではなく、石井さんとの車中での会話が僕をリラックスさせ、
演奏会後は喜びを増してくれる。バックミラーで後部座席を見ているわけでもないのに、
僕が楽譜を取り出すと、スッと車中の石井さんの気配が消える。いい練習をするのも、
いい演奏会を作るのも、僕はこの石井さんと過ごしている車中の数10分から始っていると思う。
2005年、僕は新しいオーケストラを兵庫県に作る。まずは、この都響のようにいいスタッフを
持たなければならないと実感した。
NO.36 シエナへの恋文編 02/12/25
僕がシエナと行っている活動は、まず音への追求。演奏家としてあたりまえだけれど、僕らの
中にそれが常にあるからこそ、5年も彼らとやってこられたと思う。そしていつもいろんな制限が
ある中、社会的にもその活動を評価され、メンバーが最高のパフォーマンスを続けてきてくれた
ことに誇りを感じる。
「自分の仕事場に誇りを感じられるか?」これはとっても大事なこと。メンバーお互いを
称え、足りないことを補い、僕らが目指す音作りに向かう姿勢、これがシエナには一杯ある。
演奏会を終えたときの彼らの表情を見て欲しい。彼らの顔は輝いている。それが僕にとっては
何よりも嬉しい。
「制限」それは大なり小なりどこの団体にもあることだけれど、どう考えたってシエナは
いろんなことに耐えている。音を作るベースになる練習場が無いこと、演奏会にしても、
横浜みなとみらいホールが定期演奏会の場となったとはいえ、回数的にもまだまだここを自分
たちの音作りの基準と感じるだけの実感は無い。
しかし、そうした中でも長野県松本では3年間公演を続けてこられた。12月の公演では
なんと1ヶ月も前にチケットは完売した。山口県の岩国でのミュージックキャンプも来年で
3年目を迎える。前回大成功した河口湖でも、既に来年のコンサートが予定されていて、
地元の高校生を中心としてコンサートの成功に向け何ができるかを考えてくれている。
奈良県の大和郡山でも「We Love Siena」の垂れ幕がホールのあちこちに広げられる。
どこでも地元の大きな協力があり、初めて聴きに来てくれた人たちが、次のコンサートへ
とつないでくれている。更に、今回のツアーでは、名取、いわき、柏など、新しい地での
公演も、地元の熱心なラブコールを受け衝撃的な演奏でその熱意に答えることができた。
またきっと、次の公演にもつながっていくだろう。本当にありがたい話だ。そして、そう
させているのはシエナの魅力以外の何ものでも無い。
こうしたリピートは、お客さんを変えていく。最もそれを感じるのは、やはり横浜の
お客さんの拍手。オケがステージに出てくるときから「わーッ」と湧き上がる拍手に、大きな
期待がこめられている。それは今まで行ってきた公演を既にお客さんが知っていて、何を僕らに
期待しているかがはっきりと感じられる拍手。横浜は吹奏楽の発祥の地。できることなら、
今まで以上にこのホールをベースに公演回数を増やし、横浜市の市民の方に地元のオケと感じて
もらえるようになっていきたい。
話は僕の個人的なことになるけど、僕は今思えばずっと自分の仕事に自信など持てなかった。
一つには音楽には合格点も落第点も無いこと。だから、自分をどこまでも追い込んでしまうし、
追い込んでいる時には満足というラインは現れない。
だけど、今僕には自信が生まれてきた。もちろん、音への追求は続くし、それがパリ管弦楽団
相手であっても、シエナ相手であっても、何が出来上がるかわからないものに自信など持ちようが
無いのは確か。だけど、別の次元での自信が僕の中に生まれてきたのは事実。それは、シエナの
メンバーの僕に対する信頼と、やり遂げたときの彼らの表情、お客さんの暖かい拍手、そして
それぞれにシエナを迎えてくれるスタッフの思いと期待。そういうものが与えてくれる自信だ。
将来、決して遠くない将来、シエナはいろんなものを手に入れていくと僕は信じている。そして
どんどん制限がなくなっていくだろう。だけどいつまでもこの制限の中であれこれみんなで考えて
来たこと、力を合わせ僕らにとって何が最高の演奏になるのかをいつも目指していること、そして
ラブコールを贈ってくれている主催者の方達の熱い思い、こういうものを大事にしていきたい。
僕が世界中で最も愛し誇りを感じるオケ、それはラムルーとシエナ。自分の仕事場に誇りを
感じることを教えてくれた彼らに、いつもいつも僕は感謝している。
NO.35 シエナ横浜定期公演編 02/12/17
早く寝ようと思うのだけれど、シエナとの演奏会の後はいつもすぐには寝付けない。
あの「星条旗よ永遠なれ」をみんなで演奏する時の一体感は、僕の想像をいつも遥かに超えている。
ホール全体が笑顔で一杯になる。若い人も老人も、この地球では同級生。音楽っていいなと改めて
思う。
シエナの演奏会には、いろんな人が楽屋を訪れてくれる。いつもの仲間に加えて、プロレスの
藤波さん、サッカーの岡ちゃん、スポーツライターの玉木さんや、アナウンサーの軽部さんに、
ヴァイオリンの高嶋さん、ドラマーの則竹さん。更に、91歳の名医、日野原先生までお目にかかれた。
これ、みんなシエナのお陰。いい仕事したなぁー。
NO.34 「1万人の第九」編 02/12/17
11月22日、物凄く天気のいい日に関西空港に着いた。妻の母の出迎えで、この春に買った神戸の
マンションに直行。まだ数週間しか住んでないけど、それでも既に自分の家だと思うところが面白い。
夏の仕事の合間に作ったベランダのバーカウンターも、留守の間に壊れることなく、僕らの帰宅を
待っていてくれていた。
次の日、さっそく一万人の第九の練習開始。まずは僕の意見で結成したユースオケの練習からだ。
これは、今まで19年間続けてきたプロの合同演奏をこの20周年を機にお断りして結成したものだ。
どうなるかわからないけど関西の学生達と直接話ができる場を持ちたい、そして「関西」とか「学校」
なんていう狭い範囲を超えて、刺激し合える場が作れるんじゃないかと、ほぼ直感で僕がMBSの
スタッフに昨年の暮れに指示を出したのがきっかけで出来たオケだった。それだけに僕の責任は重大。
夢と不安と両方抱えての初顔合わせとなった。
最初の練習での出来は悪くは無かった。少し練習すると、明らかに面白く変化した。だけど、
プロなら数分で終わることが、何十分かけてもできないこともあり、5時間の練習時間をかけても
終わることなく、あえなくギブアップでへとへとになって帰宅。その夜、時差のせいと、先の
不安も増したことで、疲労はかなり溜まっていたにもかかわらず、ゆっくりと睡眠をとることが
できなかった。でもそれは同時に、ワクワクしていて、眠っているのがもったいないというのが
正解だったのかもしれない。
次の日は合唱の練習。何しろ1万人いるわけだから、約1000人ずつやって僕は9回繰り返さ
なければいけない。あたりまえの事だけれど、合唱のレッスンを受ける人たちにとっては、
一回一回が僕との初練習になるわけだ。まさに体力との勝負でもあり、気力との勝負でもある。
言っておくけれど、「佐渡の指揮は熱い!」とかって書かれるけど、実は僕は努力も根性も大嫌い。
手が抜けるならいつでも抜いちゃいたいと思っている。だけど、やっぱりベートヴェンは面白い!
練習を重ねるごとに、僕のテンションは上がりっぱなし、その度に一体感が増してゆく。
出来上がるものが何になるのか想像がつかないところまで行っている。こんなに面白いものはそうそう
無いぞ。だって、一万人の人がそれぞれに想像してくれたら、そしてそれぞれが主人公になった
としたら、僕はただそれを楽しむだけだもの。
指揮者って、「こうやってくれと命令を出す」ものだと思っている人がいるけど、それは僕の
やり方ではない。あくまで、何人でやろうが、一つ一つの音に、それを作る人の苗字がついている
のが佐渡流なのだと自分で思っている。とにかく合唱の練習を3日間やる間、僕のテンションは
極限まで上り詰めたり、楽屋で突然下がったり、かなりのスピードでそのテンションの上り下りと
付き合うことになる。そうこうしているうちに、不覚にも熱が出始めた。
11月27日、ウィーンからの5人の奏者がユースオケと合流した。学生にとっても、僕に
とっても最後の真剣勝負の始まりだ! なんて力んでも始まらん。実際、音楽を通して分かり
合えているもの同士はすぐにお互いが何を作りたいのか理解し合えた。練習後、誰よりも
僕のところに喜びを伝えてくれたのはウィーンの先生たちだった。
それに引き換え、最近の若いもんのおとなしいこと。あいつらの顔を見ていると、嬉しいのか、
つまらんのか僕にはよくわからん。できるだけみんなと話ができるようにと、ロビーで座って
いたのだけど、実際に声をかけてきたのは数人だった。
オケの休憩後、練習再開のとき、学生たちはスタンバイの状態で、たまたまウィーンの先生待ちの
時間ができた。もうイライラしていた僕は、指揮台の上から「ぶっちゃけたこと言うけど、
おまえら楽しいんかい?」と聞いてみた。この言葉がどれだけみんなに届いたかはわからないけど、
僕はね、彼らの心の声は聞こえていたんだな。「嬉し〜!」って叫んでる声がね。でも、彼らは
ニコニコ笑っているだけ...つまんないの。
だけど、それを境にみんなの演奏スタイルは少しずつ変わってきた。ウィーンの先生の格好を
真似するやつ。楽譜なんて全然見ないで、ずっと僕の指揮を見てくれているやつ。オケ全体が
変わっていく。毎回毎回止めるごとに進化していくオケ。まるでスポンジに水を与えるように
吸い込まれていく、僕とウィーンの先生の指示。言葉が足りないときは、関西在住のプロが手助け
してくれる。それだけでなく、MBSのスタッフらが、周りをぐるっと囲んで見守ってくれている。
まるで岩山を昇るように、一つ一つ杭を打ちながらベートヴェンに挑んだ。何しろ前に戻る練習を
する時間はもうない。時間との勝負。
合唱は、年を重ねるごとにレベルの高いことが実現していった。もちろん一万人という単位で
考えると、合わないこともあってあたりまえの状況での話だが、それでも、出てくる声の力強さは
聴いているものを年々圧倒する。誇り、人生へのさまざまな喜び、人との共感、それが最も身体に
近い楽器、声を通してひしひしと伝わる。余談だが、合唱の練習の合間に、サントリー名誉会長の
鳥井さんが見学にいらした。御高齢にもかかわらず、最後までいらして楽屋でお話ができた。
その目には涙が浮かんでいた。
何度も何度も練習で僕が言った「本番は一回ですから」が本当にみんなをその気にさせたのか、
いよいよ本番でのステージではオケは超フレッシュな音を鳴り響かせた。身体が自然に動き、
みんなウィーンの先生に負けないぐらい胸を張っての演奏だ。ゲストの平井堅さんは、一人一人の
心に届く声を披露してくれた。なぜ音楽を僕らはやっていて、この会場にみんなが集まって
いるのかを実感できた瞬間だった。気遣いの細かい小倉さんの名司会で、第1部は感動的に、
そして楽しく、晴れやかに「ニュルンベルグのマイスタージンガー」前奏曲で幕を閉じた。
残すは、「第九」だけ。数ヶ月かけて練習した第九のたった一回の瞬間を迎えるときが来た。
完全燃焼。その言葉に尽きる。その中で、今まで練習で撒いた種が花を一杯咲かせてくれた。
何度も何度も練習した最初のセカンド・ヴァイオリンの音から、それは見事に実を結んだ。
「全て僕が責任を取る」と伝えたホルンのソロを担当した女の子も素晴らしい音を聞かせてくれた。
男性コーラスの「フロイデ」が今まで以上に強く出たときの驚き、会場中のお客さんも全員
立って一緒に歌った歓喜のメロディー、最後に近づくほど、みんなが作る音の花の中で僕は完全に
逝ってしまっていた。
指揮をし終えたとき僕の身体はもうこれ以上動かないと思った。ここまで僕の身体を動かして
いたのは、音楽の神様以外考えられなかった。この本番は、音楽以上の音楽だった。この世に
音楽があってよかったと思えた。子供の頃からの夢、「指揮者になりたい」を思い続けて
よかったと思った。
終演後、全ての出演者はもちろんだけど、誰よりもスタッフにありがとうと伝えたかった。
人は捨てたもんじゃない。きっと、今日の演奏で、少しは街が元気になるような気がした。
それが僕も含め、ここに集まった人全ての使命だったように思う。
NO.33 ハンブルグ・ローマ編 02/12/17
11月の僕のスケジュールは、ハンブルグに飛び、ハンブルグ・フィルハーモニーの
定期演奏会に出演することから始まった。ハンブルグ国立歌劇場を本拠地にするこのオケは、
シンフォニー・コンサートをするときにハンブルグ・フィルと名乗る。
ハンブルグ国立歌劇場は、北ドイツでは一番と言っていい歌劇場だろう。思えば、
バーンスタインについてシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン音楽祭のために最初に
たどり着いたドイツの空港はここだったし、更に彼のアシスタントになって、ウィーン・
フィルの演奏旅行の時にも来たことがある。よくよく見ると美しい街だなぁ。なんせあの時は
財布の中のお小遣いは一万円。寝袋を背負っての旅行だったけど、今回はアトランティック・
ホテル、かつて天皇陛下も泊まったというホテルで、まあ豪華なもんだね。
オケの練習は、ドヴォザークの交響曲第8番からスタート。事務局長の紹介で、形式的な
拍手をオケからもらうと、コンサートマスターが僕のところにきてこう言った。「僕は、
この曲をカラヤンとやったんだよ、それに、クーベリックともやったしね」いきなりの先制
パンチかい! 「ならば、今度は僕と初めてのドボ8ですね」と言いたかったけど、そこは
京都人、ついつい「それは素晴らしい」と持ち上げ、彼は言うことは言ったと自慢そうに
自分の席に着いた。
練習は、順調に僕のペースで進んでいった。時々、例のコンマスが自分の思い入れを伝える
ために練習を中断したのだけど、どうもそれは他のメンバーには空回り、僕の最初の直感は
間違ってなかったと読みきる。でも、僕自身もドボ8を聴いて初めて感動したのはFMで聴いた
カラヤンのライブの録音。それにクーベリックのバイエルンでの演奏。最初の練習が終わって、
そのことをコンサートマスターに伝えると、彼のそれまで無理に張っていた胸がやさしく
緩んだように思った。
練習二日目、メンバーのおしゃべりが少し目立ってきた。ラテン系で培われた僕の忍耐力は、
そんなことは気にならない。大事なのは最後に出来上がる音なのだから、しゃべりたいときは
あえて注意をしないのが佐渡流。それどころか、僕自身もたわいも無い話をぺちゃくちゃして
いる。そういえば小学校のときの通信簿に「佐渡君は授業中のおしゃべりが多い」とよく
書かれたっけ…。でも、やるときはやらなければいけない! そのバランスが大事なのだけど。
そんな時クラリネット奏者が突如立ち上がった。「素晴らしい練習をしているのに、みんな
もっと集中して練習をしよう!」思いがけないエールを受けて、少々照れくさかったけど、
ここからオケの熱はどんどん昇り調子に良くなっていく。
伸びやかな弦楽器、個性が少々きついが、生かせばとても音楽的な木管楽器、かなり実力の
ある金管楽器、出来ていないことを注意するのか、それとも本人の仕事に目覚めさせるのか
迷ったティンパニ。もちろん「あなたがこのオケのセンターです」と僕は言い切った。誰もに
的確な指示を送ることが出来た。
そして、本番はかつて無いような、お客さんも含めて一つになった感じを受けた。楽屋には
多くのオケマンがたずねてくれた。「いつでも来てくれ」「すぐに会えることを望む」など
数々の誉め言葉を残してくれた。そんな中、例のコンマスがやってきた。「これはもう今では
手に入らないのだけど、ぜひ聴いて欲しいんだ。昨日自宅でコピーしてきた」それは
クーベリックが昔に録音をしたドヴォルザークの7番の録音だった。二人は演奏会の大成功を
共に作った事が嬉しく、再会を誓い強く抱きあった。
次の日、ローマに飛んだ。マイナス4度のハンブルグから比べると、23度のローマはまるで
常夏の島にでも来たかのような気分だった。最初の日は一日オフだったので、とりあえず行き
つけのレストランへ。そこでは必ずモッツァレラチーズと蛸のスパゲッティーを頼む。これを
食べるためだけにローマに来てもいいぐらいだ。結局、この日から毎日この店に通った。
前にここサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団に来たのが半年前。すでにこのオケの指揮台に
立つのは4回目、誰もがマエストロと呼んでくれる気持ちのいいオケだ。今回も僕の得意な
ハイドンを前回と同様、最初に演奏し、後半はストラヴィンスキーで攻めた。彼らとのハイドンは、
僕に本当に至福のときを与えてくれる。美しさとジョークと驚きの連続が続く。
ストラヴィンスキーの管楽器のためのピアノ・コンチェルトは、ソリストにアレキサンダー・
トラッツェ。超豪快、エキサイティング、曲の面白さに夢中になった僕のことを彼は凄く気に
入ってくれた。
それにオケが上手いわ。こういうオケとは終始笑顔が絶えない。舞台裏でも「マエストロ、
ブラヴォー!」と常に言ってくれる。本番の合間にはかみさんを連れてちょっとしたローマの
休日気分。長年の夢でもあったスペイン広場でのジェラート“ペロペロポーズ”の写真も撮って、
彼女もご満悦。
さあ、明日は一晩だけパリに立ち寄って、「一万人の第九」の待つ日本帰国の荷造りだ!
NO.32 02/11/20
10月31日、3週間のトリノでの公演を終えて、パリに戻るも、日間の休みを挟んですぐに
ラムルーとのコンサートを行う。今回は、フジ子ヘミングさんからのご指名で、ラムルー管を
買ってもらったわけだ。
フジ子さんとは、この夏に一度、東京でお会いした。最初からフジ子ワールド炸裂で、会話の
内容、服装、仕草のどれをとっても、フジ子ヘミング以外の何ものでもなかった。恋愛の話し
(歴史と言ってもいいかな)、だけでも十分に一冊の本が出来てしまうと思った。
彼のマネージャーは、とにかく「フジ子さんが僕との共演を望んでおり、そのために彼女は
ものすごい努力をしつづけている」こと、それと同時に「聴力の問題を抱え、年齢との戦いを
強いられる中で、彼女の夢を一日でも早く実現したい」と僕に伝えた。彼は、それを伝える為に、
わざわざ1泊でパリまで僕に会いに来てくれた。
9月に入って、ヨーロッパでの新しいシーズンが始まった僕は、この10月の終わりだけ
数日休みをもらっていた。休みと言っても、指揮者にとっては、次のハンブルグとローマでの
公演の為に譜面を見る大事な勉強の期間。もちろん、強行スケジュールのため固くなっている
筋肉を休める、肉体的回復を待つ数日でもあった。だけれど、これだけのプロポーズをもらい、
断る理由が僕には無かったし、はっきり言って、そのマネージャーの体当たり的行動に僕は感動
した。
僕の事務所の代表佐野氏は、そう言ったタイプを代表する人間だとは思う。そして、最近
それだけパッションを持ちつづける人間を長いこと見ていないように思う。優秀な人材は多い。
夢だけを持っている人も多い。しかし、夢を持ち、分析力を持ち、そしてパッションを持ち
つづけている人、それら全てをいかなる障害を持っても、全てを含めた志を持ちつづける人は
少ない。
話が少し脱線するが、パリの友人で今北純一さんという方がいる。彼が最近書いた本、
「ミッション」と言う本を是非皆さんにも読んでいただきたい。それは日本の低迷する
経済問題を取り上げた本なのだけど、生き方も含め、多くの人に必要な要素が詰まった
本だと思う。
さて、フジ子さんとラムルー管の合わせは正直大変だった。フジ子さんからの思いがけない
テンポの来襲! どうしてもそれに合わせたい僕の気持ち。指揮者からの指示を頭ではわかって
いても、それぞれの音楽家を自由にさせてきたラムルー管の良さを引き出したいという僕の思い。
それらのぶつかりあいだった。だけれど、僕らはある種忘れてしまっていた、本来の演奏会の
面白さに出会うことになる。
本番で120パーセントの集中力を発揮するラムルー管。1楽章、2楽章、フジ子ワールドは
またも炸裂。オケはいたるところで快演を行い、ドキドキの本番を続ける中、僕と数人のソロを
とる人間との間には難所を無事に通り過ぎるごとに笑顔のやり取りが続く。これは彼女しか
持っていない、間違いなく世界唯一の演奏だった。そしてうまくいった3楽章の最後で、
オケと彼女のソロは見事にずれ、そしてはじけた!
ステージ裏に引っ込む時、彼女が僕に「最後で、失敗しちゃったわ」と僕に呟いた。
だけど、僕は凄く素敵だと思った…。彼女こそ、今では珍しくなった、自分の求めるものしか
出来ない、真の芸術家なのではないだろうか。
NO.31 2002/10
10月はトリノに3週間滞在した。お相手はイタリア国立RAI放送交響楽団。ローマの
サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団と並ぶイタリアの名門オーケストラだ。僕との関係は、
昨年に続き2度目のお呼ばれで、再びお呼びがかかるのは凄く嬉しいのだけど、同じ
オーケストラと3つのプログラムを行なうというのは結構大変なこと。やはり長く続けて
いくと、馴れ合いになる部分もあるだろうし、正直、客演指揮で3週間はきついなぁと思って
いた。
また選ばれたレパートリーが大曲ぞろい。まずはブラームスの『ドイツ・レクイエム』
演奏時間80分以上の大曲で、僕にとっては初めての挑戦となった。もともと僕は子供の頃から、
京都市少年合唱団のメンバーで、かなり合唱経験が長い。子供の頃の記憶というものは凄い
ものがあって、ラテン語にしろ、ヘンデルの『メサイア』にしろ、意味もわからんと念仏の
ように歌っていた。だけど、そうした経験は、指揮者になった今、かなり役に立っていると思う。
『第九』にしてもそうだけど、自分自身の体に子供の頃から、音が言葉と一緒に染み込んでいる
のだから、要するに馴染みやすいと言うか、「外国語で合唱をやるのはこうだ」みたいなものが、
僕の中にあるような気がする。
とは言え初めて挑戦する曲は大変。実際、この曲を生で聴いたことも一回しかない。それは
もう10年以上も前だけど、カルロ・マリア・ジュリーニという僕の大変尊敬する指揮者と
ウィーン・フィルの演奏だった。譜面自体は決して難しくはない。もちろんプロの指揮者と
しての見方なのだけど、アナリーゼをすることにさほど時間がかからない。だけれどこんな
言葉が僕には気にかかった。「大事な人を失っていない人にとっては、ただ美しい曲。大事な
人を失った人にとっては、最初から涙なしには聴けない」。そう、美しい曲なんだけど、もっと
もっと深いものがある気がして、そこまで自分が到達していない事がどうも不満。
僕の大学の先輩で、やはり指揮者をしている、本山秀毅さんという方がいる。大阪の『第九』で
いつも合唱指揮を担当してもらっている方なのだけど、最も僕が尊敬している合唱指揮者と
言っていい。こういう大曲の時は、迷わず彼に国際電話。今回も約2時間電話レッスンを受けた。
ドイツ語の発音から、宗教的な捉え方まで、それはそれは深い深い…。もちろん、そこからが
こっちの仕事で、教えられたもの、それをどう自分の物にしていくかが勝負となっていく。
トリノの劇場のコーラスは、イタリアで最高と言われている。とにかく「やっぱり、
こいつら食べてる物が違うわ!」という感じ、とにかく凄いパワー。音の重圧さ、和音の
響きがまるで教会の窓から差し込む光のように優しく届く。初回の演奏会は、ひとまず
大成功に終った。まだまだ「ただ美しい曲」としてしか表現出来なかったかもしれない
けれど…。そして、終演後に本山さんに再び感謝の電話。
2週目、マーラーの交響曲6番。演奏時間90分と言う超大作。思えばこの曲は、僕が新日
フィルの定期演奏会を始めて振ったときのデビュー曲。よくもまあこんな大曲をデビューに
選んだものだが、そう言えば、初日の練習に寝坊して遅れて行ったっけ…。だって、いくら
勉強したって、よく分からんかったから、ずーっと、楽譜と睨めっこしてたのが朝寝坊の原因。
新日のメンバーからは「そんなとこまで師匠(小澤征爾をさす)の真似をしないでいいんだよ」
と暖かくからかわれた。懐かしい思い出。
それが、今回この曲のページを開くと、飛び込んでくるんだね、いろんな音が。32段もある
楽譜が、手の中にあるって言うのかな、音が全部掴めてるんだ。それは今までに1番から
5番まで、実際に僕が勉強をし経験をしてきたからだと思う。マーラー自身が言うように、
「私の五つの交響曲を吸収し、それを真に消化した世代だけが、その解決を企てうる謎を
提供するだろう」そう、いつの間にか「吸収」という言葉の実感を持てた事が嬉しい。やはり
プロの指揮者としての12年間の時間は無駄ではなかった。
マーラーの批評は地元紙に大きく取り上げられた。行きつけの飯屋では、入れ代わり立ち代り、
いろんな人が僕のサインをもらいに来る。飯屋の親父も大サービスしてくれる。やはり僕には
「食神」が付いてるのだろうか?
ほとんど、毎日イタリア語での生活。3週間もいると、フランス語が出てこない。まあ、
どちらにしろええかげんな語学力だから、どこに行っても困らないといやあ困らないし、
どこでも迷惑を一杯かけてるわけで、それは苦でもあり、楽しみでもある。
この間、宮本輝の「朝の歓び」上下、ゴルフ雑誌6冊(うちフランス語版1冊は写真を
見るだけ)を読破(爆)。まあ、本を読むのは面倒くさい。子供のころは、読書マラソンと
いうのがあって、それはいつでもクラスで一番だったっけ。だけど、どこかで本と向かわなく
なった。時間がないのでもなく、もっと手っ取り早く答えが欲しいと思ってしまうのかなぁ。
だけど、ゴルフ雑誌は広告の電話番号まで読んでしまう。確かに興味とタイミングの問題で、
今回も宮本輝は面白かった。休みの二日間で2冊とも読んでしまったし、はまるととことん
行ってしまう自分が面白い。
そして3週目のプログラムは、ベートーヴェンの3番のピアノ協奏曲と、レニーが札幌の
PMFで振った思い出の曲、シューマンの2番の交響曲。決してあなどれないプロが続く。
1990年レニーの提唱で、アジア初の本格的な教育音楽祭としてPMFが誕生した。
プロデビューして間もないぼくは、アシスタントとして参加した。レニーは、病魔に蝕まれて
いたにもかかわらず渾身の力を振り絞ってシューマンの2番を振り、PMFに参加した若い
音楽家たちに多くのメッセージを伝えようとした。そしてその数ヶ月後にレニーはこの世を
去った。
さて、ソリストに予定されていた、ブーニンが前日になってキャンセル。まあ、こっちでは
よくあることで、大慌てで代役を探す。急遽来てくれることになったのは、24歳のミヒャエラ
というかわいい女性。オケに紹介する時に「こっちの方がいいよな?(若くてかわいいから)」
と言ったら、馬鹿受けしてしまった。
シューマンを演奏すると、今もレニーが傍にいるような気がする。あの時も、マーラーと
同じで、いくら勉強してもなかなか体に音が入ってこなかった。だけど、やはりその時によく
勉強していた事が、12年たった今、自分の血となり肉になっていると思う。演奏が終わり、
拍手の中ステージに呼び戻された時、突然コンサートマスターの合図で「ジャジャーン」と
オケが和音を弾きだした! そう、これは僕へのオーケストラからの賛辞。とってもとっても
珍しいこと。あまりの嬉しさに、ボーッとステージにたたずんでしまった…。
シューマンの2番は、レニーの演奏以外には考えられなかった僕。同時に、それは自分自身を
見つけなければいけないプレッシャーとの戦いであり、どうしても、レニーの美しい音が頭から
離れない過去の自分との戦いだった。だけど、この「ジャジャーン」を聞いたとき、一つの壁を
乗り越えたのだと思えた。まるでその音がレニーの天国からの声のように聞こえた。
「Good job! Yutaka!」
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