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NO.30 2002/09
話は少し戻ってしまうけれど、9月の京都市交響楽団との演奏旅行中に、兵庫県明石市に
行って、「佐渡裕、音楽作りたね明石」というのを行なった。このベタなタイトルは、
スタッフのYが考えたもの。決して僕のセンスではないと、まず皆さんに伝えておきたい。
多くの方がご存知のように、昨年この明石ではいろいろ悲しい事件が相次いだ。実は
今回の話は、昨年の花火大会の実行委員長をされていた方からの手紙がきっかけだった。
簡単に内容を説明すると、「あの事件が起こったときは、何をしていいやら…残された
家族の方にも、ただただ頭を下げるしかなく、本当に申しわけないことをした。せめて、
これから明石の子供たちが、少しでも元気になっていってくれることを願って、どうしても
佐渡さんに明石に来ていただけないか」という内容だった。墨で書かれた美しい字は、
延々と自分の出来なかった事への悔しさと、亡くなった子供達への思いが書き込まれていた。
もちろん、ただ行くだけでは何も意味はないと僕は考えた。兵庫県の芸術監督として、
僕の使命は何なのか、この兵庫になぜ音楽が必要になるのか。うちのスタッフにとっても、
改めてこれからホールとオーケストラを作る意味を考えるいい機会になった。
明石の街は大きく動いてくれた。何しろ、この話が決まってから、数ヶ月もなかった
というのに、明石市民会館は、吹奏楽をやっている子供達で一杯になった。明石市市長を
先頭に、吹奏楽連盟、そして各学校の先生が、いろんな分野を越え一つになってくれた。
まず僕が考えたのは、将来兵庫のオーケストラでやっていこうと思っている、 “アウト
リーチ活動”の最初の一歩をここで始めてみようということ。“アウトリーチ活動”、
つまり「出前コンサート」で、詳しいことはシンポジウムで話しているので、それを見て
いただきたい。(兵庫県芸術文化センターHP:http://www.gcenter-hyogo.jp/)
ステージに上がったのは、明石の中高生100名ほど。曲目は僕とシエナ・ウインド・
オーケストラが得意にしているリードの『アルメニアンダンス』。1時間ほどの間に、
この寄せ集めの吹奏楽団に練習をつけ、僕の指揮で行う練習を全て公開で行い、最後に
通して演奏するという企画。
また開演前は、ロビーで京都市交響楽団の金管楽器五重奏団のメンバーに来て頂き、
数曲の演奏と、指揮コーナーも作った。京響のメンバーにも、せっかく来てもらうの
だから、大いに注文を出させてもらった。「とにかく、プロは凄いんやということを
示して欲しい! だから超絶技巧を並べてくれ。そして、誰にでもわかるように、
音楽の喜びを伝えて欲しい」彼らにも、この演奏会の目的と、行なうことになった過程を
説明した。親友でもある京響首席トランペット奏者、宮村聡氏はラッパだけでなくおしゃ
べりも達者。普段の僕らの楽屋での会話のように、僕との漫才も大いに受けた。特に指揮
コーナーで、「そういう棒を振ると、すぐにこの人(宮村氏)が『おまえなぁ、そんな
棒ふっとったら、どこで出てええかわからへんわ』と言いに来る」と言うと会場はどっと
沸いた。
チューバ奏者の武貞氏は、この明石の出身。チューバという大きな楽器にふさわしい
大きながたい。で、僕の注文通り、「熊蜂の飛行」を猛烈なテンポで吹いて見せてくれ、
彼はこの日のスターになった。
さて、ステージでの「音楽作りたね明石」も、参加者の中高生がものすごい視線で僕の
棒にしがみついてきた。テクニック的なこと、音楽の面白さを発見していく方法、そして
この瞬間に音がなくなってしまう、はかなさと面白さ。決して長い時間ではなく、まだまだ
練習としては時間が必要だったけど、「もうこのメンバーで一緒に演奏をすることは今後
ない。だから今日だけの、僕らだけの音楽を作ろう」という言葉を伝えて前半を終えた。
後半は、再び京響のメンバーがステージに登場。プロのサウンドの美しさに客席も
そして、ステージ裏でも、みんなの目が輝いていた。
さて最後の選抜メンバーによる『アルメニアンダンス』の演奏。それはまさに、世界で
たった一つの演奏だった。音も外し、縦の線もばらばらになることもあった。だけど、
きっと彼らがこれからも、この不思議な音楽の力を生きる糧にしていってくれるだろうと
確信できた。
そして、何百人参加者がいるのか分からないぐらい大勢の客席の奏者と共に、アンコールに
演奏をした『星条旗よ永遠なれ』。その音は、強く、元気に、明るく、会場に響きわたった。
NO.29 2002/10
9月。やっとのことで1週間の休みをもらい、ハワイへ行った。
思えば去年の9月11日、関西空港から友人達と共に飛び立って、初めての避暑地ハワイに
降り立つのを心待ちにしていたのに、あんなにも悲惨な出来事になって、機内食だけを
食べて関空に戻ってから丸1年が経ったわけだ。今回は何事もなし。やはり、みなが言う
ようにハワイはいい。毎朝ゴルフに行って、これが調子よく親友達に快勝! おまけに
チャンピオンコースでのプレイだったにもかかわらず、40、40の80で回れた事が嬉しい。
5日間の平均スコアーが84というのも大満足。
さてさて、真っ黒にハワイ焼けで、「棒が見難い」とクレームが出る中、秋のヨーロッパ
でのシーズンも始まった。先ずはラムルー管での最初の定期。曲目はドビッシーの「Juex」、
スコダとのモーツァルトピアノ協奏曲24番、ストラヴィンスキーの「火の鳥」いつもながら
に熱心な聴衆に迎えられ、大成功に終えた。
このシーズンではまたプログラムに一工夫があって、このドビッシーの曲は、フランスで
もあまり演奏されない曲。僕自身は素晴らしい作品と思うが、オケのメンバーでの評判は
練習をはじめるまでは決して芳しくなく、多くの聴衆もこの曲のファンというのは少ないよう
に思った。そんな中僕らが行なったのは、全曲を演奏する前に、曲のサンプルを抜きだし
解説を加えたこと。初めての試みで、内容が少々難しくなったのが反省点ではあったけど、
結果的にはより深くこの曲を伝えられたと思う。
この曲は大変面白いストーリーを持っていて、もともとバレエの為の作品。二人の女性と、
男性が公園で出会う。男性は二人のうち、一人の女性とワルツを踊る(つまり恋におちる)
が、もう一人とも踊り出す。そして3人のダンスとなり、3人が同時にキスをすることを
避けられない状況になった時、テニスボールが転がってきて3人はそれぞれに去る。
演奏会場となったシャンゼリゼ劇場では、テニスルックに身を包んだ女性たちが、
お客さんをお迎えし、床には所狭しとテニスボールに見立てた風船が転がっている。
一方、ステージ上も今までにない椅子が置かれており、大きな椅子(背もたれが2メートル
ぐらいある物など)にオーケストラのメンバーが座り、美しいランプなどが飾られていて、
とてもセンスのいい美しいステージだった。
スコダとのピアノ協奏曲は、それはそれは美しく楽しいものだった。練習での充実度も
さることながら、演奏中のアイコンタクトがとても幸せだった。若い頃、ウィーンをはじめ
世界中で注目された彼も、今や75歳。75歳の誕生日を迎えた彼に、オケがハッピーバース
デイを演奏。終演後、神戸にできる新しいホールでの再会を誓った。
メインの「火の鳥」は、僕も何回も取り上げている作品。ラムルーの音は眩しい!
そうこれこそ、僕と彼らが作り出した新しい音のように思う。拍手は僕がコンサート
マスターの手を掴み、舞台袖に無理やり連れ戻すまで、いつまでも続いた。
僕にとってちょっと嬉しかったのは、新しい指揮台が出来た事。詳しい報告は
ラムルー管のビオラ奏者安積君が、いつかラムルー通信を書くといっているので、
その時に写真も載るだろうけど、譜面台には「ラムルーから裕へ、愛を込めて」と
彫られている。10年の節目を迎える僕らの関係は、今まさに始まった恋のように
心地よく熱いと思った。
最初のコンサートがフィガロ紙やルモンド紙などで大好評を得、喜んでいるのも束の間、
すぐに次のコンサートの練習に取り掛かる。シャトレ座で開かれる癌撲滅チャリティー
コンサートだ。
今回はオール・バーンスタインのプログラムで、ゲストとして、この春、シエナと
録音をしたCD(ブラスの祭典2)で、「プレリュード、フーガとリフス」のドラムを
叩いてくれたT−スクエアーのドラマー、則竹裕之さんに来ていただいた。彼にとっては
オケの中で叩くのは初めてとの事。もちろんパリでもデビューだ。
今回はウエストサイドストーリーやオンザタウンなど、通常オケの打楽器奏者が叩く
曲を彼に担当してもらった。それに加え、パリのミュージシャンとトリオを組んでもらい、
「ニューヨーク・ニューヨーク」「サムアザータイム」などをとても斬新なアレンジで
演奏してくれた。ものすごいスピードの曲で、彼の最高のリズム感と高揚感が会場に
ブラボーの嵐をおこした。
圧巻は、アンコールで行なった「マンボ」の前奏を、彼の長いドラムソロにしたのだけど、
彼のセンス、彼の技術が、ヨーロッパでも十分に通用することを示す物だった。パリの多くの
人達に「ヒロ」の名前が刻まれたことだろう。オケのみんなから「ヒーロー」と呼ばれている
のも、パリに日本から来てもらった僕としては何とも嬉しかった。
そして舞台裏に引っ込むとすぐに、極度の緊張感から開放されたのか、彼は号泣! 誰もが
その彼の姿に心を動かされた。
NO.28 2002/10
昨年に続き、今年も山口県で岩国ミュージックキャンプを行なった。これはシンフォニア
岩国というホールを基地に、シエナと僕が5日間滞在し、全国から集まった熱心な吹奏楽
ファンは、シエナのメンバーによるクリニックを集中して受けることが出来る。
コースは誰でも受けられる「ワクワククリニックコース」と、オーディションで選ばれた
「プロフェッショナルコース」に分かれる。どう違うかというと、プロフェッショナル
コースのメンバーは、最終日に行なわれるシエナのコンサートで、オーケストラのメンバー
として一曲演奏に参加する事ができる。もちろん指揮は僕で、上手ければソロを任すことも
ある。
もう一つこのキャンプで、僕自身もお金を出してスポンサーになり、昨年に続き熱を
入れているのが、子供達のキャンプ。僕が音楽の授業を行い、今年はシエナのトランペットの
メンバーをゲストに迎え、みんなでホースとじょうごでトランペットを作り、聖者の行進を
最終日の演奏会で披露した。またシエナ専属編曲者の杉浦さんにも手伝ってもらい、
オリジナルの「キャンプの歌」を作ったりもした。もちろんキャンプファイヤーや、
バーベキュー大会もあり、それはそれは楽しい一泊二日のキャンプだった。
また、岩国市の小学校でも練習の合間を見て音楽の授業をし、それを山口県全体から
集まった先生に参観してもらい、授業後は先生方と有意義な意見の交換をした。僕が子供の
頃、出会った先生が素晴らしかったからこそ、僕は今音楽を仕事にし、しかも音の喜びと
面白さで満たされている。少しでもこうした形でお世話になった方への恩返しが出来たらと
思う。
それと同時に、こうした僕の活動には、ホールを中心とした地元の活性化、聴衆へ更なる
芸術的な刺激、ヴォランティアの活発な活動への期待、教育の場への刺激など、様々な思いが
込められている。2年目じゃまだまだだけど、シンフォニア岩国で行なった演奏会では、
聴衆からも、ホールのスタッフからも、確実に去年よりもこの思いに対し返ってくるものを
感じ、大きな満足感で、シエナとの夏のツアーが終った。
この夏の日本での最後の仕事は、育ての親ともいえる京都市交響楽団との定期演奏会も
含むツアーだった。曲目はショスタコーヴィッチの5番をメインに、ユリア・フィッシャーを
ソリストにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
先ず、このユリアの素晴らしいこと!歳はまだまだ若い18才。ヴァイオリンの上手さは、
世界で確実にトップの力だ。おまけじゃなくて美人だし、その舞台姿は既に巨匠の粋に達し
ている。京響とのショスタコーヴィッチは、長年の信頼関係から、よく練習をさせてもらい、
細部にまで僕の意志に答えてくれた演奏だったと思う。ただ、いつも思っているのだけど、
練習場の音響が僕はとても不満。せっかく新しい練習場(と言ってももう何年にもなるの
だけど)を持ち、新しいホールが出来たのに、それが全然リンクしていないのがとても残念だ。
いい音色をオケが作ろうとしても、その努力が報われない。いい音色の中でこそ、いい音程が
生まれるものだ。つまりハーモニーは調和なのだから、全ての響きの中でこそ成立する物では
ないだろうか。逆に京都コンサートホールは、鳴るホールではないけど、音色に品のある
ホールだと思う。それを直前の練習だけでは生かせないのだから、今後、このホールで
できるだけ京響が練習できる環境を作れたらいいのにと思う。
今回のツアーは、京都の定期公演以外に、彦根、神戸、そして大阪のサンケイホールで
行なった。サンケイホールは、今年で50周年を向かえたのだが、この演奏会を最後に、
クラシックの大きな公演は終了すると発表した。シンフォニーホールが出来てもう既に
久しいが、自分達のクラシックでの役目は終えたと宣言されたわけだ。それはそれで素晴
らしい発言だと僕は思う。そして、かつてここは朝比奈先生の指揮でオープンし、なんと
不思議な事に、僕の誕生日の数日前、つまり1961年の5月に、バーンスタインがニュー
ヨークフィルとの初来日で指揮していた。
昔の大阪人は、お金儲けだけでなく、全てのことに貪欲だったのではないだろうか。
落語も、ジャズも、クラシックも、ここで毎晩のように名手たちがそれぞれの芸術を披露した。
その最後のコンサートを僕が指揮させてもらったことは、非常に光栄なことだと感じる。
京響とのサンケイホールでの演奏会は、まるでレニーが僕に乗り移ったかのように、
熱い演奏会となった。
NO.27 2002/10
シエナと僕とのツアーは、その後も奈良の大和郡山、大阪サンケイホール、そして滋賀の
彦根と続いた。どちらの公演も、ただ演奏だけをして素通りするのではなく、河口湖でも
やったように指揮クリニックや楽器クリニックを行ない、できるだけ地元の人の関心を
向けたいと思った。
大和郡山は「佐渡裕と過ごす夏休み」というタイトルがついていて、「そのお陰で僕の
夏休みはない。」としゃべったら大いに受けたが、これ本音。でも、昨年に続いての
大和郡山での公演は、地元バンドや熱心なスタッフの力で、ますます面白い物になってきた。
バンドクリニックの後、担当のAウィンズの打ち上げに顔をだした。行く予定をして
なかったのと、中華料理店だということもあって、店の入り口で待機していて、餃子を
焼いてもらって、それを持ってみんなの前に顔を出した。「餃子、お待たせしました〜」
なぜか、メンバーは組み体操で歓迎してくれた。(その様子はA-Winds ホームページを
ご覧下さい! http://www.interq.or.jp/classic/a-winds/home.htm)
大阪サンケイホールは今回50周年。朝比奈先生でオープンしたこのホール、僕の
産まれた日の直前にバーンスタインがニューヨークフィルハーモニーとの初来日で
指揮台に立っている。数々の名演を残し、そして50周年で、「クラシックのホールと
しての役目を終えた」と宣言する考え方に共感。今やこの音響の悪いホールで演奏を
するのはつらいものがあったけど、だけど、大阪人の文化の高さを一杯感じられる
ことになった。何しろここは落語も、お芝居も、ジャズも、全てのジャンルのステージ
だったんだ。ひとまず、ホールにお疲れさんを伝え、新しく西ノ宮に建てるホールに夢を
たくし、一つの時代が終るんだということを実感した。
彦根では素晴らしいオマチュアオーケストラに出会った。まだ低学年の小学生から、
結構歳を召しているメンバーまでが、一つになって演奏してくれた。素晴らしい音響の
ホール。そして立派なアマチュアオケの存在。どうにかして、お客さんの熱意を集め、
ホールと地元と協力して、これからも演奏会を作っていきたいと思った。そして、
その可能性は十分にあると実感した。
あと岩国に続く。
NO.26 2002/09
8月の日記にも書いたけど、8月17日の「真夏の第九」はライブ録音をした。
本番一発で録り、終演後1時間ほど部分的に録り直しをしただけで取った。
特に面白いのは、12月の「一万人の第九」のための練習用CDもこの音を材料に
別バージョンで製作したことだ。この練習用CDには参加者への僕からのメッセージ、
それからピアノ伴奏での僕の合唱練習。そして合唱用に細かく頭出しが出きる4楽章の
音のみが収録されている。
特にこだわったのはブックレットで、ここまで指揮者が事細かに第九への思いを
書いたものはないだろう。歌う者にとって、やはりドイツ語の歌詞は大きな壁となる。
もちろんオーケストラのプレヤーにとってもそうなのだけど、仮に直訳の歌詞が頭に
入っていても、それで十分とは言えないと僕は常々思っている。
僕がオペラと出会ったとき(もちろん第九もそうだけど)は、今のように舞台の
上や端にサブタイトルなど出なかったし、事前に勉強をしていくのがあたりまえだった。
そして、仮にそれを読んだとしても、一見、意味不明の内容が多く、結局は自分でそれを
読むだけでなく、その作者の語りたい思いまで探らなければいけなかった。
特に僕がウィーンに留学をしていた時、毎日通ったオペラハウスでの体験が、
そんな勉強をあたりまえのものとし、言葉を理解することよりも、音楽が語っている
ことにもっと大事な意味があることを、その体験が強く教えてくれた。
だけれど、今僕が行なわなければいけないことは、外国語をもっと演奏者に身近に
届けることであり、そして聴衆にも同じ理解を求めることだと思う。更に、先にも書いた
けれど、あくまでも音楽を感じる事が第一であり、言葉を理解しただけで終ってしまうのは
最も残念なことだと言うことだ。このブックレットを自分で書いた事で、一体どこまで
そのことに挑戦できたかはわからないけれど、とにかく面白い内容になっているのは
確かだと思う。10月頃に完成し、「一万人の第九」の練習会場のみで発売される。
録音を終えた僕は、またまたシエナのツアーに突入。練習を東京フォーラムで行い、
その間に河合文化庁長官と、サッカーの川淵チェアマン、玉木正之氏と共に日本のボラン
ティア活動についてのシンポジウムにも参加し、大変有意義な時間を過ごした。
準備万端で練習を終えたシエナと僕たちは、最初の公演地である河口湖に向かった。
そこには、それこそ地元の高校生を中心とした100名ほどのボランティアに守られた
暖かな音楽祭が出来上がっていた。音楽祭という名がつくにはとても小規模なものかも
しれない。予算も随分少なかっただろう。だけれど高校生の手で企画され、大成功を収めた
「森の音楽会」は大変意味があるものだと思ったし、テレビの取材も入ったりと大成功を収めた。
僕たちの演奏会での食事も、ほとんどが地元で採れた食材で、手作りの物が出された。
演奏会前夜祭ではバーベキュー大会。それとシエナを歓迎しての演奏発表会。演奏会の
前は手作りのカレーに、終演後は焼きそばで町長も一緒に打ち上げを行なった。
高校生が中心となったこのボランティアだが、実際は多くの大人がその後ろで支えて
くれた。地元の先生、音楽愛好家、それに昨年この河口湖での最初の演奏会を企画して
くれた毎日新聞の方まで本番前の椅子並べなどもしてくださっていた。
音楽会を作る側の温度が高いと演奏家も熱くなる。その思いに答えたいと思う。
当然その盛り上がりは聴衆に伝わる。このコンサートから、正式に僕はシエナウインド
オーケストラの首席指揮者に就任することにした。
そしてシエナと僕との最初の一歩は、高校生達のボランティアの力で最高のコンサートとなった。
NO.25 2002/08
8月17日、横浜みなとみらいホールで「真夏の第九」をやった。
最初はこの企画、やはり季節的な意味で違和感があったのだけれど、やってみて
本当によかった。きっと12月にやっていても、いくら録音をするからとはいえ、
ここまで充実して取り組めなかった様な気がする。いや、恒例の年末の第九は
いいもんだ。それはまったく否定するつもりはない。だけど、今回は季節外れ、
別に横浜にめでたい事があったわけでもなければ、新日フィルが何十周年を迎えた
のでもなく、ただただこの曲の為に取り組んだ事がよかった。
僕の第九のほとんどは新日フィルの指揮者をしていた時代に作られたものだと
言える。まだまだ経験の無い頃に、毎年、何回も振らせてもらった事が、僕のこの
曲への思いを膨らませてくれた。それから約10年、いろんなオケで試し、第九は
僕の血となり肉となっている作品だと言える。
もちろん「一万人の第九」の総監督を3年経験し、はっきりとした意思を示さ
なければならない立場におかれて、余計にこの大曲を日本のオーケストラで録音
する時が来たと感じていた。つまり、佐渡裕は1年の3分の2を海外で過ごして
いるから、海外のオケ、外人のソリスト、外国の合唱団で録音というのではなく、
このヨーロッパを代表する大曲を、今こそ日本人の手でベートヴェンが驚くところ
まで創造してみたいと思ったのだ。
古巣、新日フィルからは十分練習時間を与えてもらい、伝えられることは全て伝え、
みんなも気持ちよく全ての僕の思いに答えてくれた。ありがたいことだ…。いい本番が
できた。そして、またまた新たな発見があり、まだまだ勉強不足だと感じた。終演後、
親友で僕の先生でもある本山氏と話が出来た。会話の内容は一方的に僕からの質問攻め。
やはり凄い作品だ。
今ホテルに帰り着き、ものすごい満足感と全てのスタッフに感謝の気持ちで一杯だ。
11月に今日の本番のCDが発売される。自信も、不安も、疑問も、全ての事が41歳の
佐渡裕の記録として人間臭く残ることだろう。ただ、今できることは全てやったと言える。
そして、明日からまた新たな第九を作ることにワクワクしていきたいなぁ。
NO.24 2002/07
6月終わり、2週間のお休みをもらって、充電満タン。
-7月は、まずシエナと原さんとの「トランペット吹き鳴らせ!」。昨年YPCの好評のため、
リバイバルだけど今年は更にパワーアップ!シエナは最高だね!あの乗りのよさ、これは
プロだからこそできるもの。技術があってこその充実感。こんなにお客さんの喜びを実感
できる仕事があっただろうか。お客さんの実感。これは大事な僕のキーワード。実感の無い
ステージなんて、これから作っちゃいけない。だからこそオーケストラもハッピーだし、
お客さんもまた来てくれる。お客さんにも言いたい。これからは、実感の無い演奏会なんて
行っちゃいけない。頭で考える事が実感か?フムフムうなずく事が実感か?言葉を越えた
ところに音楽は存在する。だからこそ音楽はすばらしいんじゃないのだろうか。
そして原さん。あんたは凄い!
どれだけの子供があんたに憧れてこれからラッパ吹きを目指すのだろうなぁ。またまた、
大きな成長を見せてくれたね。もう、本気で海外に出たら?あんたのラッパで世界を震わ
せようよ!きっと原ブーならできるに違いない!
−7月後半。YPCが終っても7月は大忙し。
何しろ都響とのコンサートが6回もあった。
そのうち3回はギターの神様、スティーヴ・ヴァイとのギター協奏曲「炎の弦」世界初演。
これが本当に難しいんだ。作曲家の野平さん、ダイエットの本も書いたら?だって2時間
譜面に向かっても、1ページしか進まないんだよ!まるで算数(数学はほとんど知らない
けど…)。都響が始まる1週間前から、毎日3時間の睡眠が続く。体重はまじで減っていった…。
でも、作曲家は書きたいだけ書くべきだ。「ここまで書くならやってやろう!」こっちも
心からそう思える。佐渡にも意地がありますからね。スティーヴもそうだったんだろうなぁ。
ロックの神様も、指揮にあわせて演奏するのは初めてだそうだ。変拍子の嵐、楽譜を見ても
メロディーを追いかけられない不安。そこにあるのは野平さんの情熱と、彼の頭の中にある
音のかたまり。何とかその音を掴みたい!その一心で初日の練習を迎えた。スティーヴは
ロックミュージシャンだけどめちゃくちゃナイスガイ。やっぱり音楽の神様はジャンルを
超えて彼にもついていた。ロック小僧だった僕、バーンスタインが大の憧れだったスティーヴ、
それを野平さんがくっつけてくれた。そして何より、そんな僕らの必死の思いをどこまでも
応援してくれたのが、都響の素晴らしいプロ根性。練習を重ねるごとに、野平さんの思いが
形になっていく。
3日間のサントリーホール。全体の3分の1はロックファンだった。彼らがこの協奏曲を
盛り上げてくれた。演奏終了後、彼らが立ち上がって拍手をしてくれた。同じく、休憩後の
「春の祭典」を終えたときも、彼らは立って拍手をしてくれた。とっても気持ちのいい遣り
甲斐のある1週間だった。気がつけば、体重は5キロ減っていた。
−8月。4回目を迎えるYPCが今年も京都、大阪、神戸で行なわれた。
この台本は毎年一年がかりで作るのだけど、辻井伸行君との出会いで、急遽、この春に台本
作り直し。全てを彼との対話で構成する。辻井伸行君、現在13歳。生まれながらの全盲。
おもちゃのピアノを触っていたことからピアニストになる。彼の音はとにかく美しい。
彼の音は聴くものの心を揺さぶる。心のひだひだを刺激する。優しくて、明るくて、そして
力強い。ハンディーは、僕には想像もつかない大変さが伴うだろう。特に彼のご両親は、
常にそのことと向かっていかなければならないだろう。だけど、僕には彼の音があまりにも
美しいことだけが届く。音楽の神様が彼のそばについているのが見える。新しいレパートリー
をつくるのも大変だろうし、オーケストラと合わせることも不安があっただろうけど、僕に
とっては音楽の為に、ただそれだけの為に僕と彼は知り会えたと思える。素晴らしい出会い!
感謝感謝。
伸くん、大きくなれよ!もっともっと君が感じていることを音にしろ。どこまでも届く
神様からの光を音であらわすんだ。モーツアルトで最初に鳴らした音のように…
NO.23 2002/07
新日本フィルとの仕事を終えた直後、6月はパリでラジオフランスと公演。モーツァルトの
「3台のピアノのためのコンチェルト」、グレンジャーの「ウォーリアーズ」、そして
ホルスト組曲「惑星」。このオケとはいつも意欲的なプログラムだ。
このグレンジャーの「ウォーリアーズ」という曲は3人も指揮者が必要なのだけど、
全部一人でやっちゃった。オーケストラはそれぞれ全然違うテンポでステージ上3グループに
分かれるんだけど、とっても不思議な曲だった。
「惑星」は作曲当時に星が発見されていなかったから、「冥王星」が欠けているのだけれど、
本当にここのオケはいつも挑戦的というか、マシューが新たに作曲した「冥王星」が付け加え
られた。放送局のオーケストラという立場もあるのだけど、新しい曲を演奏することは大変
だけどもで、上手くいくととても面白い。
そのあと、古巣ボルドーにまた帰る。こっちは得意のレニーのプログラムとフレンチプロ。
アンコールには、僕のアイデアで編曲をした、サティの「ジュ トゥ ヴゥー」(途中オケも
歌を歌う)を演奏し、特別に暖かい雰囲気で演奏会を終えた。
まったく違う二つのオケの演奏会だったけど、両方とも共通していたのはワールドカップの
為に練習開始を遅らせた事。通常9時半の練習を11時まで待ったのだけど、残念ながら
結果は皆さんもご存知のとおり…
2週間仕事をしたら、再び日本へ。でも、6月の終わりは2週間の休みをもらった。
今年に入って初めての長いお休み。もちろん、ワールドカップがあったからだけど、準決勝も
埼玉まで見に行く事ができたし、サッカーの無い日はもちろんゴルフで、大満足の休みでした。
NO.22 2002/06
久しぶりに、日本ではちきれた感がある新日本フィルハーモニーとのコンサートでした。
このオケとは長年の付き合いもあって、面白いもので自分の中に若い頃の良くない筋肉の
記憶が残っているのね。それは、このオケが若い頃の僕に色々なチャンスを与えてくれた時に、
僕の経験不足、勉強不足で身についてしまった緊張の記憶。今、ヨーロッパでいろいろ経験を
積み、よく勉強していても、このオケを前にするとその記憶が自然に思い出されてしまうのが
とても面白かったです。
しかし、コンサートマスターの豊嶋君をはじめ、懐かしのメンバーに新しく入れ替わった
メンバーの暖かな雰囲気で、その悪い筋肉の記憶も、良い物に変わったような気がする。
だから、凄く僕が動いているというイメージがあるかもしれないけど、実は僕自身は全然
疲れていない。動いた事が音にはまってオケから帰ってくると、先に書いたような嫌な記憶が
どんどん良い物に変わる。
ヴァイオリン・ソロのアッカルドさんは典型的なイタリア人、職人気質といった感じの方。
大概イタリア人というと、超明るい能天気な人のような気がするけど、僕の言う典型的な
イタリア人とは、いい意味で古臭く、頑固で、自分の使命をやり遂げる人。
まあ、演奏会の時がちょうどワールドカップ・サッカーの初日だったから、ソロを弾いたら
「悪いけどテレビを見なくちゃいけないから、すぐ帰るよ!」とそそくさと帰ったあたり、
サッカーに関してはみな一緒という感じ。
そうそう、一つ久しぶりに新日フィルの定期に出て感じた事がもう一つ。お客さんが静か
だねー! これは新日フィルだけじゃなく、日本のお客さん全部がそうなんだろうな。
なんていうかざわめきが無い...、それは静けさという意味では美しく、真剣に聴いて
くれているのだから、ありがたいことなのだけど、初日はちょっと息が詰まりそうになった。
だから良くないといっているのじゃないけど、オケが堅苦しいのか(新日に関してそうは
思わないけれど)あまり静かだとお互いにプレッシャーを感じるから、やっているほうは
少々緊張が増す。まあ、それがうまく作用すれば、神がかり的な演奏も生まれるわけで、
その雰囲気をいいように使わないといけないのだけど、もうちょっとゆったりと聴いて
いただけるとお互いかなり楽な気がする。
メインの「ローマの祭り」は大盛り上がりで、終った時はすごいブラボーだった。
でも、僕はその前の「ローマの噴水」があんなに繊細で美しくできた事が凄く嬉しかったなぁ。
ピアノとチェレスタには、親友の“ジュニーニョ”が弾いてくれていて、もっと舞台裏で
彼とおしゃべりしたかったのに、なんかバタバタしていてあまり話が出来なかった。
だけど、舞台上でのアイコンタクトでの会話とで、お互いの気持ちが全てわかっちゃうから
やはり音楽は面白い。
新日、ブラボー! このオケが自分達のホールを持って、本当にオケの能力が大きく
変わった気がします。この夏は横浜で「第九」だね! たった一発の「第九」。めちゃくちゃ
上手くいきそうな気がする...
NO.21 2002/05
うそみたいな事が起こったんです! 家内の公子が買い物帰ってくると、「裕ちゃん、
車のドアが壊れてるけど、どうしたん!?」。彼女は気が動転しているのかアパートの
インターホン越しでの会話でした。
ボルドーでオペラの仕事のため5週間滞在しているある日の出来事。パリからのレンタカー
だったのですが、車は家のすぐ前の駐車場に止めていました。つまり車上荒らし。話には
聞いていたけど、10年以上にもなる僕のフランス滞在で初めての出来事でした。狙われた
理由は、携帯電話を車の中に忘れた事。すぐに警察に行き証明書をもらい、車はレンタカー
だからすぐに交換。もちろん携帯は解約したのはいいけれど、なんとトランクに、僕の一番
大事なゴルフクラブのセットが入れてあったのです。クラブ一本一本、全部僕のために
作られた特別チューンです。もちろんお気に入りだし、何しろ総額150万円以上! 金額が
どうのこうのより、中でもパターは友人から頂いた世界で100本しかない、とても貴重な物...。
ボルドーでのオペラの初日が目の前という時だけに、すぐに忘れて気分よく仕事に集中
したいと思っていた矢先の出来事でした。「そんな大事な物、車の中に置いとく方が
アホや!」何度忘れようとしても、自分のしてしまった事が悔やまれてなりません。
その週の日曜日には、街で開かれる最大の蚤の市にも行き、探し回りましたが見つかる
はずがない。すっかり落ち込んだ毎日でした。
メールでそのことを知った日本の事務所の代表佐野さん、やはりこの人の行動は凄い
「裕ちゃん、昨日クラブ注文したし。僕が買うたるわ! そやから元気出して忘れ!」。
なんとなく、もうちょっと泣きたかったけど、目の前に予想外のおもちゃを与えられて、
突然泣くのを止めた子供のように、確かに元気になりオペラの初日は大成功で終えました。
ですが、それと同時に僕の中で、やはり自分が大事に思っていたクラブの行方が気になり、
「今頃どこに居るんやろう?」と一日に何度も何度も思い出していたのです。
盗難があってから10日後の朝、ボルドー劇場の秘書から電話がありました。「ユタカ!
あなたのクラブ、見つかったよ!!」。もうすでに見つからないと諦めていましたから、
その言葉を何度も何度も聞き直しました。しかし、本当に戻ってきたのです! 全ての
クラブがそのまま、もちろんパターも何の傷もつかず帰ってきました。話によると、ある朝、
とあるアパートの庭にゴルフクラブが落ちていて、管理人さんが拾ってくれ、届けでている
人も居ないのでどうしようと思っていたそうです。
ところが、キャリーバックには「Yutaka Sado」の文字。「あれ? この名前
どこかで見た事がある!そうだ、今劇場でオペラをやっていて、その指揮者じゃないかしら!」。
彼女はすぐに劇場に電話をしてくれて、それを秘書が直接電話で話を聞いたそうです。
こんなことってあるんですね。まるで奇跡としか思えません。
日本とは全く治安のレベルが違うフランスでの事。自分のしたことに問題があるにも
かかわらず、もうちょっとでボルドーの街が大嫌いになるところでした。だけど、見つけて
くれたおばさんに何度も何度も御礼を言って、街の人全てがいい人に見えて、益々大好きな
街になりそうです。本当に本当に、これからはずっと僕のそばにいてくれとクラブに話しかけたのでした。
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